志呂神社から南に行き、岡山市北区建部町豊楽寺にある静謐山豊楽寺(ぶらくじ)を訪れる。
ここは、真言宗の寺院で、寺伝によれば、和銅二年(709年)に玄昉上人が開基し、その後鑑真和尚が堂塔伽藍を整えたという。
岡山市指定重要文化財の仁王門を過ぎて、石段を登ると本堂が見えてくる。
豊楽寺は、室町時代には山名氏や赤松氏の庇護を受け、多くの寺領と23坊の堂塔を有する大寺院となっていたが、天正年間(1573~1592年)に、宇喜多直家の配下で、日蓮宗を信仰していた松田氏から日蓮宗への改宗を迫られた。
改宗を断った豊楽寺は、松田氏に寺領を没収され、堂塔を焼かれてしまった。
寛永年間(1624~1644年)に、津山藩主森忠政により寺は復興された。現在の本堂は、貞享三年(1686年)に落成したものである。正面三間、側面四間、桟瓦葺きの堂々とした建物だ。薬師瑠璃光如来をご本尊とする。
本堂の西側には大師堂が、東側には観音堂が並んでいる。
観音堂には、聖観世音菩薩像が祀ってある。格天井、天蓋や須弥壇、密教法具がなかなかに豪華絢爛である。
豊楽寺には、岡山県指定重要文化財となっている「豊楽寺文書」なる文書が伝わっている。
正平七年(1352年)から宝暦十二年(1762年)までの間の、地元国人層から豊楽寺への寺領の寄進状など、寺の運営に関する文書が、巻物に貼付、表装され、年代順に整理されて現在まで伝えられた。
松田氏に堂塔を破壊された時に、よくも焼けずに残ったものだ。
本堂の裏にある鎮守社の鳥居が、いかにも古そうだったが、建てられた年代は確認できなかった。
古い石造鳥居は、存在感があっていいものだ。
さて、豊楽寺を後にして、旭川沿いの道を上流に向けて遡る。しばらく行くと、行く手に旭川第一ダムが見えてくる。
川の左岸は岡山市だが、川の右岸は、岡山県加賀郡吉備中央町神瀬である。
このダムは、旭川が吉備高原を削ることで形成されたV字谷を利用した、高さ45メートル、堤長210メートルの重力式コンクリートダムで、昭和29年秋に完成した。
このダムが旭川を堰き止めていることにより、全長18.5キロメートル、湖面約4.2平方キロメートルの旭川湖が形成されている。
旭川湖の手前には、ボートが係留されている。ここでは釣りなどが行われているようだ。
広々としたダム湖の景色を楽しんでいると、ふと手前に目立たぬ石碑があるのに気づいた。
近づいて見てみると、旭川ダムの建設工事に際して亡くなった殉職者の碑であった。
ここには、30名の殉職者の名前が刻まれていた。この碑は、昭和29年11月20日に岡山県により建てられたものだ。
今から66年前に建てられたものである。ここに刻まれた故人の生前を知る人は、今どれほど残っておられることだろう。
世の中に住む人の大半は、死後時が経過すれば世の中から忘れ去られてしまう。故人を知る人が物故者となれば、その人が生きていたことを示す痕跡は、戸籍の記録と墓石に刻まれた名前くらいになってしまう。
東日本大震災があった後、しばらくの間テレビに被災して亡くなった方々の名前が掲示されていた。
私はそれを観て、「平家物語」や「太平記」の中に、やたらと武士の名前を羅列している個所があったのを思い出した。私は、テレビ画面に写された亡くなった方々の名前を見て、「平家物語」や「太平記」が、死者の鎮魂のために書かれた書物であると理解できた。
死んだ武士の人生には、人知れぬ数々のドラマがあっただろうが、それを全て書くわけにもいかないから、せめて名前だけでも羅列したのだろう。
そういう目で、この殉職者の碑を見ると、一人一人の名前の背後に、様々な人生の諸相が籠もっているような気がした。
人の名前は、粗末に出来ぬものだと思った。