佛教寺から国道53号線を南下し、岡山市北区建部町下神目(しもこうめ)にある志呂神社を訪れた。
岡山市北区建部町の内、建部町福渡より北の旭川左岸は美作国の領域になる。
志呂神社のかつての社格は県社である。
創建は和銅六年(713年)である。和銅六年は、備前国から美作国が分離した年である。この年に弓削庄27ヵ村の総氏神として、志呂神社が創建されたと伝わっている。祭神は、大国主命の子の事代主命である。まだまだこの辺は、出雲の影響下にあると感じる。
志呂神社の見所は、嘉永元年(1848年)に造営された本殿である。
入母屋造の建物本体から三間四面の総欅造りの長大な出向拝が伸びている。神社建築様式で言えば美作独特の中山造りだが、こんな長い向拝のついた社殿は見たことがない。
そしてこの出向拝の彫刻が実に見事である。志呂神社は、全国的にはあまり有名ではない神社だが、建築の凝った作りから受ける感動は、並みの有名な神社よりも高いかも知れない。
私の愛用カメラのRX100の望遠機能が貧弱なのが惜しまれるが、見事な出向拝の彫刻を観て、我を忘れて何枚も写真を撮った。
この本殿は、建部町指定文化財となっている。
中山造りは、なかなか雄大な形をしている。津山市にある本家本元の中山神社に参拝するのが楽しみである。
本殿の三手先の斗栱も複雑な姿を見せている。
この天満宮も、見た所本殿と築造年代は同じくらいだろう。
志呂神社には、京尾御供と呼ばれる行事が昔から受け継がれている。
毎年秋祭りに、久米南町京尾の氏子が神社にお供えをする神饌行事である。
だんごで作った「フト」と呼ばれる女陰を象ったもの三個と、男根を象徴した「マガリ」一個、餅で作った丁銀三個、米飯一盛、柚子一個、箸一膳を榊葉の上に盛った七膳の神饌が作られ、御幣を立てた唐櫃に入れられて御供所に運ばれ、紋付袴を着用し、榊葉を口に加えた七人の頭人により供饌される。
古式が厳格に守られた御供行事であり、岡山県指定重要無形民俗文化財となっている。
また志呂神社には、正安四年(1302年)に作成された「志呂宮御祭頭文次第」を、文安三年(1446年)と享保十二年(1727年)に書写した「志呂神社文書」が残っている。文書には、春秋の二度の大祭に、志呂神社に御供米を供えた宮座のことが記されているそうだ。鎌倉時代後期の宮座の様子を窺える貴重な資料だそうだ。
志呂神社の秋祭りでは、邪気を払う棒遣いの神事が奉納される。
獅子舞などはあちこちのお社で伝承されているが、棒遣いの神事は珍しい。鬼面、天狗面を被った人が、六尺の樫の棒を戛然と打ち合わすそうだ。さぞ勇壮であろう。一度観てみたいものだ。
志呂神社の背後の三樹山の林は、鎮守の森として、これまでほとんど人の手が加わってこなかったそうだ。
原始的な植生に近いシイノキ、ヤブツバキ、シリブカガシなどの常緑広葉樹が広がっているという。林は四季を通じて厚い葉に覆われ、温度と湿度の変化が少なく、寒さに弱い南方系の植物と、暑さに弱い北方系の植物が同居する珍しい環境であるらしい。
神社には、鎮守の森がつきものである。神社は、古代の人が自然から何か大きな力を感じた場所に建てられていることが多い。
神社は、建物だけでなく、建てられている場所の周辺の環境を知ることで、より深く理解できる。