赤磐市山陽郷土資料館

 岡山県赤磐市は、平成17年3月に、赤磐郡山陽町、同赤坂町、同熊山町、同吉井町対等合併して出来た自治体である。

 旧山陽町は、市の南側に位置し、岡山市ベッドタウンとなっている。赤磐市役所も旧山陽町にあり、赤磐市の中心街の位置づけとなっている。

 この旧山陽町域の遺跡から発掘された遺物を収蔵しているのが、赤磐市山陽郷土資料館である。

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赤磐市山陽郷土資料館

 赤磐市山陽郷土資料館の手前には、明治41年に建てられた西高月村役場の棟瓦が置かれている。

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西高月村役場棟瓦

 西高月村は、大正15年に高月村に改称した。西高月村役場の建物は、そのまま高月村役場となった。高月村は、昭和28年に一部が山陽町に、一部が岡山市に合併された。

 この棟瓦は、旧高月村役場の屋根の最上部に載っていたものだが、昭和54年に現在地に移築された。

 旧高月村役場の建物は、地元にとって惜しむべき思い出のある建物だったのだろう。なので、建物の象徴的部分を保存することにしたのだろう。

 赤磐市山陽郷土資料館内には、縄文時代弥生時代の遺物もあるが、古墳時代の遺物が最も充実している。

 館内に入ってすぐに目に入るのが、赤磐市福田に所在する小枝2号墳から出土した陶棺である。

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小枝2号墳出土装飾付陶棺

 小枝2号墳は、古墳時代末期の7世紀中葉に築かれた古墳である。この陶棺は、全長172センチメートル、幅52センチメートル、全高90センチメートルの大きさである。

 棺の身(下側)に蓮のつぼみを連想させる3つの浮文が付され、蓋にも円形の浮文が2つ付されている。

 このような装飾が付いた陶棺は非常に珍しいそうで、岡山県指定重要文化財となっている。

 当ブログで訪問する予定はないが、6世紀の古墳の岩田14号墳からは、豪華な副葬品が出土している。

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環頭太刀

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鐘形杏葉

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馬具類

 金で造られた環頭を持った環頭太刀や馬具など、被葬者である当時の豪族が何に価値を見出していたかが分る。

 また少し興味を覚えたのは、14号墳から釘が発掘されていることである。

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岩田14号墳から発掘された釘

 当時の庶民が住んだ竪穴式住居は、木材を藁の紐などでくくって建てられていた。庶民の建物に釘は使われていなかったろう。

 だがこの時代に、釘を使った木造建築物が登場したようだ。恐らく、身分の高い豪族の居館などに使われたことだろう。

 古墳に埋められていることから見て、釘は6世紀の日本では誇るべき貴重品だったのだろう。ということは、釘を使った木造建築物は、6世紀ごろにようやく登場した、当時の我が国最新鋭の建物だったということになる。

 7世紀の我が国に、世界に残る最古の木造建造物、法隆寺が登場したことを思えば、我が国の技術も段階的に発展してきたことが分る。

 また岩田6号墳から発掘された、銀が象嵌された八窓鍔は、今でもオブジェとして通用する芸術品だと思えた。

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象嵌八窓鍔

 5世紀の古墳、正崎2号墳からは、被葬者の遺骨と、その周囲に置かれた副葬品が埋葬当時の姿で見つかった。

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発掘された正崎2号墳の棺内の様子

 現代人も、肉親が亡くなった時、棺の中に生前の故人のお気に入りの品を入れたりするが、それは古墳時代も同じだったろう。

 古墳に埋葬された豪族にとって、技術の粋である銅鏡や鉄剣、甲冑などは、死後も身近に置いておきたいものだったのだろう。

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正崎2号墳出土の直刀

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正崎2号墳出土の甲冑

 赤磐市山陽の用木1号墳からは、銅鏡や銅鏃が発掘されている。

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用木1号墳出土の銅鏡

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用木1号墳出土の銅鏃

 私は銅の鏃を初めて見たが、銅は実用品というより祭器として使われることが多い。この銅鏃も、実際に武器として使うために鋳られたのではなく、祭器として使われていたものではないか。

 また、当ブログ今年4月5日の「周匝城跡」の記事で紹介した茶臼山城から発掘された、中世の陶磁器が展示してあった。

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茶臼山城出土の陶磁器

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 城跡というと、現代人はすぐ合戦のことを想像するが、こうした陶磁器を使った日常生活も確かにあったのである。

 古墳時代は、西暦250~650年ころ、約400年もの長きに渡って続いたが、仏教が伝来したのは、古墳時代最後の100年ほどである。

 古墳時代の遺物は、仏教伝来以前の日本の文化の姿を見せてくれる、貴重な品々である。古墳時代の人々が、当時の祭具や武具を副葬してくれたおかげで、我々はその時代に触れることが出来るのである。