備前国分寺跡

 岡山県赤磐市穂崎にある朱千駄古墳のすぐ北側に、仁王堂池という溜池がある。

 備前国分寺跡から南方約300メートルに位置する池である。

 この溜池のあたりが、奈良時代聖武天皇によって建立された備前国分尼寺の跡とされている。

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仁王堂池

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備前国分尼寺の説明板

 本格的な発掘はされていないが、この仁王堂池周辺から、備前国分寺創建時の瓦と同種の瓦や礎石らしき岩が発見されたため、国分尼寺跡があったと比定されている。

 ここから北に約300メートル行った赤磐市馬屋(まや)に、国指定史跡備前国分寺跡がある。

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備前国分寺跡

 当ブログが紹介した、播磨国分寺跡、美作国分寺跡に次ぐ三つ目の国分寺跡である。

 国分寺は、天平十三年(741年)に出された、聖武天皇の「国分寺建立の詔」により、全国60余国に建てられた官制の寺院である。

 聖武天皇は、疫病や災害で苦しむ民衆を救うため、仏教による国家の鎮護を求め、国分寺建立を決断した。

 そして全国国分寺の総寺として、奈良に東大寺が建てられた。全国の国分寺は廃寺となったが、東大寺の法灯が脈々と続いているため、聖武天皇の願いは現代に生きていると言っていいだろう。

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備前国分寺想像図

 備前国分寺の伽藍配置は、東大寺式と言われるもので、築地塀に囲まれ、南門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線に並び、境内南東に塔が配置されていた。

 当時瓦葺の建物は、国分寺国府、駅家といった国家の主要な建物しかなかったろう。

 国分寺の白壁に朱色の柱、瓦葺の華麗な伽藍は、各地方の人々にとって、奈良の都を想像させる眩い建物だったろう。

 当時の国分寺は、地方の仏教の中心だっただけでなく、文化や教育や福祉も担い、「国の華」とうたわれた。

 備前国分寺跡は、昭和49年に発掘調査が行われ、昭和50年に国指定史跡となった。

 備前国分寺には、かつて高さ約60メートルに及ぶ七重塔が建っていた。塔の内部には、鎮護国家を説いた経典を納め祀っていたそうだ。

 塔跡には、奈良時代の塔心礎が残っている。現在はその上に、鎌倉時代に建てられた石造七重層塔が建っている。

 また塔心礎の周囲には、当時礎石があったと思われる場所に模擬礎石を置いている。

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塔跡

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塔心礎

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石造七重層塔

 石造七重層塔は、鎌倉時代後期に建てられたもので、今は赤磐市指定文化財となっている。

 備前国分寺の塔、中門、金堂は、平安時代中頃には倒壊し、平安時代末期には講堂も焼失したらしい。

 鎌倉時代には講堂が再建されたが、戦国時代には廃絶したようだ。

 備前国分寺跡の南門、中門、金堂、講堂、僧房などの跡は全て発掘調査されている。

 この中で、礎石の配置が再現されているのは、講堂跡のみである。

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南門跡から金堂、講堂方面を望む

 上の写真は、丁度南門跡から北の金堂、講堂跡方向を写したものである。

 金堂は、現在の寺院でいう本堂で、ご本尊を祀った寺院の中心となる建物である。

 金堂跡は、今は雑草で覆われた台地でしかない。

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金堂跡説明板

 金堂の北側にあった講堂跡からは、奈良時代当時の礎石が見つかっている。

 講堂は僧侶が行事を行ったり、経典が講義された建物である。

 当時の礎石と模擬礎石を交えて、講堂の基壇が再現されている。

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再現された講堂基壇

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奈良時代の講堂礎石

 講堂には、北面回廊が接続していたが、北面回廊跡を発掘した時に、平安時代末期に講堂が焼失した際に焼け落ちた瓦がそのままの状態で発見された。

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講堂と左右の北面回廊の想像図

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焼け落ちた北面回廊の瓦

 さて、備前国分寺から発掘された遺物は、赤磐市の中心部にある赤磐市山陽郷土資料館に展示してある。

 備前国分寺跡からは、創建時から廃絶された室町時代までの各時代の瓦が発掘されている。

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奈良時代の瓦

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室町時代の瓦

 瓦一つ取っても、時代時代の表情があって面白い。

 また、建物に使われていた金具、釘、壁土、丹が付着した瓦も発掘されている。

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備前国分寺建物の飾り金具

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釘と壁土

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丹が付着した瓦

 丹が付着した軒平瓦が出土したことにより、奈良時代備前国分寺の建物が赤色に塗られていたことが判明した。

 また、備前国分寺跡からは、文字が刻まれた文字瓦が出土している。

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文字瓦

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 備前国分寺から出土した文字瓦は、創建時の瓦で、建物ごとに同じ文字がまとまって出土した。文字は建物に使う瓦を識別する記号のようなものと見られている。

 また、10世紀ころに備前国分寺で使用された銅印が僧房跡から見つかっている。

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銅印

 常という字が彫られているそうだ。

 奈良時代の日本の文化の中心として創建された各国の国分寺だが、どこも概ね中世の到来と共に廃絶したようだ。律令制度の崩壊と軌を一にして国分寺も衰退した。

 国分寺の盛衰は、形あるものは滅するという仏教の教えを、身をもって示しているように思える。