石峯寺を出発し、神戸市北区淡河町南僧尾の南僧尾観音堂に行く。
ここは、承和七年(840年)に創建された新善寺の本堂だったとされる建物である。
行って見ると、残念ながら修復工事中であった。
南僧尾観音堂は、建築年代は不詳だが、堂内から発見された「堂頭日記」には、延徳元年(1489年)から天正十二年(1584年)までの村人の生活が書かれていたという。
ここから少し北に行った北僧尾に、厳島神社がある。
厳島神社は、永正十一年(1514年)の創建で、神社に伝えられる獅子舞は、中世に居住した能の一派福王氏が創設して奉納したものであるという。
ここの雄獅子の舞は、類例が少なく、古い伝統を有するものであるという。
境内にある北僧尾農村歌舞伎舞台は、安永六年(1777年)の墨書のあるもので、現存する日本最古の農村舞台である。
正面右端にある突出部は、「チョボ床」と呼ばれ、義太夫・三味線の座で、舞台用に作られたものである。
また、正面下部の横板は、普段は雨戸として使われ、上演の時は前方に倒し、舞台を広く使えるようにする道具で、「バッタリ」と呼ばれる。
農村歌舞伎舞台は、神社の拝殿に向けて建てられている。日本の芸能が、神々を喜ばせるために始められたことを現わしている。
日本最初の芸能は、天岩戸に閉じこもった天照大御神を引っ張り出すために、天岩戸前で行われた天宇受賣命の踊りである。
さて、ここから南下し、淡河町勝雄にある淡河八幡神社に赴く。
淡河八幡神社の創建は、宝亀十年(779年)とされる。当初は表筒男命(うわつつのおのみこと)を祀った。仁安年間(1166~1169年)には、第27代安閑天皇を祀り、貞応二年(1223年)に鎌倉の鶴岡八幡宮から応神天皇の分霊を迎え、若宮八幡宮と称するようになった。
その後淡河城主の淡河氏、淡河氏を滅ぼして新たに淡河城主となった有馬氏、明石藩主から篤い信仰を受けた。
やはり八幡神は武人の神である。
この神社に古くから伝わる御弓神事は、鎌倉時代が発祥と伝えられる。
御弓神事は、毎年2月17日に行われる。
宮司が祝詞を上げた後、鳥居内に建てられた直径2メートルの的の真ん中に「鬼」という字を書き、すぐにこれを塗りつぶしてから、氏子から選ばれた正副四人の射手が、神前から的中央を狙って弓を放つ儀式である。
射手は、烏帽子、狩衣の鎌倉武士の姿となり、厳格な武士の作法に則った所作で矢を放つ。
的を射た弓は、神前に奉納される。
鬼を封じる古式ゆかしい、緊張感ある祭儀なのだろう。一度見て見たいものだ。
普段見えない神々を、氏子たちが祭儀を通じて喜ばせようという気持ちは、思えば不思議なものである。
自分が生まれる前から氏神様はいて、自分が死んだ後も氏神様は地域を見守っている。氏子たちは、祭儀を通して、地域の過去から未来を貫く存在に参与する気持ちになるのだろう。