杉原紙

 私たちが普段何気なく使っている紙。

 この紙を日本人はいつから使い始めていたのだろう。

 今はオンラインでつながったパソコンやスマートフォンがあるので、紙がなくても文字を用いて情報を伝達することが可能であるが、そのようなものがない時代には、紙がなければ情報を伝達したり記録するのもままならなかった。

 紙が使われる前は、東洋では竹簡や木簡に文字が書かれていたが、紙と比べれば、圧倒的に重たいし嵩張る。紙の発明は、人類が長い文章を記録できるようになった、画期的な発明である。西洋には羊皮紙があったが、羊皮紙に「源氏物語」全巻を書けば、重たくてかなわなかっただろう。

 日本では、第15代応神天皇のころに中国から書物が伝わったとされている。日本でいつから製紙が始まったかは分からないが、6世紀には欽明天皇が渡来人に戸籍の編集をさせたとされており、このころには渡来人が製紙を始めていたと思われる。

 大宝律令によって、宮内省の中に国家の文書を管理する図書寮(ずしょりょう)が設置された。図書寮は、我が国の歴史を編纂して書物にした。即ち「古事記」(712年)、「風土記」(713年)、「日本書紀」(720年)である。これらの書物は、紙に書かれたことだろう。

 図書寮は、紙の生産と調達を管掌しており、大宝年間には、美作、播磨、出雲、美濃、越前などで和紙の生産が始まっていたらしい。

 天平九年(737年)の「正倉院文書」には、「播磨経紙」という言葉が出てくる。

 この時代から和紙を生産していたとされているのが、兵庫県多可郡多可町加美区杉原谷地区である。

 杉原谷は、平安時代には摂関家藤原氏の荘園であり、椙原(すぎはら)庄と呼ばれていた。

 永和四年(1116年)には、藤原忠実の日記「殿暦」に「椙原庄紙」という言葉が出てくる。

 鎌倉時代には、質の良い椙原紙は、鎌倉幕府の公用紙となった。室町時代にも引き続き幕府の公用紙として使用された。いつしか椙原紙は「武家の紙」と呼ばれるようになった。 

 このように杉原谷では、古くから和紙が生産されていたが、洋紙が普及した大正時代には廃絶し、幻の紙となった。

 昭和15年に、杉原谷を訪れた和紙研究家の寿岳文章言語学者新村出が、この地を椙原紙(杉原紙)の発祥の地と確認し、研究論文を発表した。

 そのおかげか、昭和45年に、廃絶していた杉原紙の生産が再開され、昔ながらの方法で今も生産されている。

 加美区鳥羽の青玉神社の前には、道の駅杉原紙の里・多可がある。道の駅の裏に、杉原紙を研究、伝承する杉原紙研究所や、和紙博物館寿岳文庫がある。

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杉原紙研究所

 研究所の前には、楮の白皮が吊るされて干されていた。

 和紙は、楮の樹皮(白皮)から作られる。楮は、産地によって色や光沢、強さに違いがある。杉原谷の奥深い谷から滾々と湧き出る冷たい水と、冬には雪の舞う厳しい気候風土によって育った楮が、杉原紙の風雅な美しさを保っている。

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楮の説明

 中世には、杉原紙は質量ともに全国一と称せられた。中世には紙はまだ高価で、高級贈答品にされていたそうだ。

 和紙の原料となる楮は、葉の落ちた冬に刈り取られる。枝を切り落とし、1メートルほどの長さに揃えられる。 

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刈られた楮

 刈られた楮には、黒皮がついている。釜で蒸して芯と皮を柔らかくし、黒皮を剥ぎ取り、更に包丁で削り、白皮のみにする。 

 白皮を川の清流に晒して綺麗にし、日光に当てる。こうすることで白皮はより白く、美しくなる。

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白皮を清流に晒す状況

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日光に晒される白皮

 杉原紙研究所の前には、清流野間川が流れている。手を切るような冷たさの川に白皮が晒されていた。

 川水に一度晒された白皮を、木灰の灰汁かソーダ灰の入った大釜で煮て、もう一度川水にさらして、灰の汚れや塵を取る。この時に冷たい水の中で汚れを取る作業をしなければならない。

 綺麗になった白皮を角棒などで叩く。今は機械で叩かれている。こうして細かくほぐされた原料を水を張った漉舟の中に入れ、のりを加えて、漉具を用いて1枚1枚漉いていく。出来た和紙を板干しにしたら杉原紙の出来上がりである。

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紙漉きの作業

 杉原紙研究所には、紙を漉くための作業室がある。無料で見学できる。

 和紙博物館には、杉原紙の発祥地を杉原谷と発表した寿岳文章の資料等を展示している。

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和紙博物館

 寿岳文章は、明治33年(1900年)に神戸市押部谷に生まれた。文学博士で英文学者である。和紙研究家としても名高い。平成4年に亡くなった。

 平成8年に和紙博物館が出来た際に、寿岳文章の娘の寿岳章子が文章の蔵書を寄贈し、寿岳文庫が設置された。

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寿岳文章の書

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「本の正座」の署名

 寿岳文庫には、寿岳が書物の美について書いた「本の正座」という、杉原紙で製本された書物が展示してあった。

 そこに寿岳が、「正しく坐してこそ美し 本も人も」と書いた文が目についた。

 デジタル化の時代に、紙の書物がいつまで残るか分からないが、紙の書物の佇まいは美しいものである。いつまでも残ってもらいたい。

 博物館の隣の紙匠庵でんでんでは、杉原紙の製品が展示販売されている。

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杉原紙の製品

 また、杉原紙は、昨年の即位礼正殿之儀の御朱印用の紙としても使われたそうだ。

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即位礼正殿之儀の御朱印

 私は紙の書物の匂いが大好きなのだが、紙が人類の文明に齎した豊かさは計り知れない。

 身の回りにある当たり前の道具にも、先人が苦労して作ってきた長い歴史と伝承がある。

 身の回りの道具の便利さとありがたさに目を向けてみるのもいいことかも知れない。