美作地方の中心都市である津山市は、古くからこの地域の中心であったが、平成17年に、勝田郡勝北町、苫田郡加茂町、同阿波村、久米郡久米町と合併して現在の広大な市域となった。
今日は、合併して消滅した旧勝北町の史跡を紹介する。今は、勝北町の名を冠する地名は残っていない。
国道53号線の日本原交差点から北に走り、津山市市場の広戸小学校の近くにある、地域の国人広戸氏の居城だった河原山城跡と居館跡の国司尾館跡に至る。
広戸氏は、当ブログの今年1月2日の記事「奈義町の史跡」で紹介した、美作菅家七流の祖・有元満佐の次男が起こした家である。
河原山城跡は、小高い丘の上にあり、丘の北側から入ることが出来るが、途中で道がなくなり、森林に遮られ進めなくなる。
山全体が草木に覆われ、かつての土塁跡もなかなか判別できない。約500年前の城の跡であるらしい。
河原山城跡の東側には、国司尾館跡がある。
国司尾館は、広戸氏の居館の跡だが、今は一部が墓地になっている。広戸氏の居館当時のものか、後世のものかは分からないが、僅かに石垣などが残っている。
広戸氏に関する記録はあまり残っていないので、実態はよくわからない。南北朝期には赤松氏に属し、赤松氏没落後は美作に侵攻してきた尼子氏に属したようだ。
広戸氏の遺跡を見た後、津山市役所勝北支所に向かう。勝北支所の道路を挟んで向かいに、岡山県指定重要文化財の宝篋印塔がある。
この宝篋印塔には、康永二年(1343年)の銘がある。この地には、かつて観音堂が建っていて、堂跡から古備前の壺や、南宋産の青磁碗が見つかっている。
新善光寺は、高野山真言宗の寺院で、天長八年(831年)に弘法大師空海が開基した寺院であると伝えられる。
弘法大師が安芸厳島で虚空蔵求聞持法の修行をし、その後この地に至って、荒れた森の近くの池から明星が出現し飛び去るのを見た。
大師が荒れた森に目をやると、金色に輝き、信州善光寺の尊像が影向し給うのが見えた。
不思議を感じた大師は、手づから多聞天、持国天の尊像を刻み、この地に安置した。これが新善光寺の創建説話である。
弘安年間(1278~1288年)には、一遍上人が当寺に立ち寄ったという。
永徳二年(1382年)、土豪今井兼重が、信州善光寺の脇立本尊の阿弥陀如来像を請来し、新善光寺と称した。
しかし、新善光寺の七堂伽藍は、天正五年(1575年)に発生した火災により全焼した。ご本尊は行方不明になってしまった。
兼重の末孫兼忠が、不思議の夢想を蒙り、一心に祈ると、一角の大蛇が阿弥陀如来像を頭に頂いて水底から現れ、ご本尊を置いてまた水底に沈んでいったという。兼忠は無事だったご本尊を奉じて寺院を再興した。
境内に入って右手の客殿は、天保年間(1831~1845年)の建築である。
客殿には、弘法大師の像が安置されている。
境内の中央には、大師堂があり、その前に立派な修行大師像があった。
新善光寺は、平成16年10月20日に襲来した台風23号により、客殿、大師堂、本堂が大きな損害を受けた。
平成18年から平成21年にかけて、堂塔が修復された。修行大師像もその際に建てられたものである。
本堂には、ご本尊の阿弥陀如来像が祀られていることだろう。
寛永三年(1626年)、津山藩主森忠政は京都で重い病に苦しんでいた。忠政は信州川中島を領地としていた時、善光寺を深く尊仰していた。そのため、ゆかりのある新善光寺の明星水を服用すると、病は忽ち平癒した。
忠政は、信州善光寺と新善光寺の本尊が一体であることを深く感得し、美作に帰国後新善光寺に50石を寄付したという。
当ブログの記事は毎回地味だが、今日は取り分け地味であった。どんな地方にも、大事に伝承されてきた歴史や説話がある。著名な史跡を巡ることも面白いが、地方に伝わる地味な説話を拾っていくのも面白いものだ。