女人禁制の領域に足を踏み入れる。
岩が転がる悪路を登攀する。途中、役小角の石像があった。
役小角は、死んでからはるか後に、神変大菩薩という諡号を朝廷から送られた。日本の霊山のほとんどは、役小角が開山したという伝承を持っている。
歩くと標高がどんどん高くなっていく。上にあがるほど、紅葉が鮮やかである。
白い幹と、紅から緑、黄までの葉の色彩の交錯が美しい。
はるか上方から、「ぴー」という鳴き声が聞こえる。多分、鹿の鳴き声だろう。ほとんど頭上といってもいい高さから聞こえてくる。
さらに登っていくと、目の前に石垣が現れる。前回私が「驚くべき光景」と言ったのはこれのことである。
ここは、標高千メートルはあろうと思われる場所である。そんなところに、どうやってこの石垣を運び、ここまで緊密に組み上げたのか、驚くばかりである。
石垣上の奥の院の周辺は杉の木が生い茂っているが、杉の木の深い緑と周りの紅葉のコントラストがいい。奥の院は、11月7日に閉戸(閉山)される。私が訪れたのは、その直前である。本当にいい時期に来た。
石垣の上には見上げんばかりの巨岩があり、その巨岩の下にへばりつくように奥の院の建物がある。
下から見上げれば、鳥取県の投入堂を思わせるが、あれよりはるかに広い敷地の上に建っている。
奥の院の左右には、守護神のように一対の杉の木が生えている。
何しろ、奥の院の背後の岩が巨大である。しかも、奥の院の屋根は、その巨岩にくっついている。自然の中の人間の営みの小ささを思い知らされる。
奥の院からは、山頂近くの稜線が眺められる。よくもここまで登ってきたものだと我ながら感心する。
ちなみに奥の院の参道に入ってから、奥の院に達し、その後麓に下りるまで、誰とも会わなかった。一般のハイキング客が登るような場所ではないのだろう。
大きな感動を味わってから下山する。
麓に下りて、美作市中谷に行くと、国指定重要文化財の林家住宅がある。ここは、江戸時代中期の上層農家の住宅である。板絵図銘から、天明六年(1786年)の建築であると分かっている。
長屋門は、桁行11間、梁間3間という長大なもので、茅葺屋根と土壁の懐かしい建物である。
長屋門に並んで、米倉がある。
米倉の茅葺屋根と千木の姿が、古い神社建築に似ているように思う。
主屋は、桁行13間、梁間5間の大きな入母屋造り、茅葺の建物である。
主屋の茅葺屋根には、芒などの雑草が生え始めていて、このままいけば自然に帰ってしまうのではないかと思われる。思えば日本建築は、茅や木材や和紙や土壁といった自然由来のもので出来ているので、修復をしなければ、元の自然界に戻ってしまうだろう。
主屋の奥に、主屋と隣接して衣装倉が建っている。
林家住宅の建物内部は公開されていない。居住している方もいない。
地味ではあるが、天明当時の大農家の姿を残す貴重な建物である。
今回、役小角が開いたとされる霊山の一つを訪れた。そこで息を呑むような感動に襲われた。
思えば日本の国土面積の約7割は山である。
日本の人口の大半は、平野部に住んでいる。平野部の住宅地ばかりで生活していれば、日本の国土の大半を占める山を知らずに生涯を終えることになる。
それで日本という国を理解したと言えるのか、大いに疑問である。山を知らずして日本を知ることは出来ないだろう。
日本という国土に魂があるとすれば、それは山に宿っているように思う。役行者は、山を歩いて修行しながら、そのことに気づいていったと思われる。