葛下城跡

 2月12日に美作の史跡巡りを行った。所々に雪が残る中を巡る旅だった。

 最初に訪れたのは、岡山県苫田郡鏡野町中谷にある葛下(くずか)城跡である。

葛下城跡

 葛下城跡は、標高約370メートルの大松山上にある山城跡である。

 葛下城跡への登り口は二つある。

 葛下橋の西詰から南に進んですぐの集落から、林道が西に延びている。

葛下城跡へ延びる林道

 ネット上では、全てこの林道からの登り路を紹介していた。

 この林道を進むと、途中で舗装がなくなる。そして車を駐車出来る場所が見えてくる。

 ネットでは、この駐車場所の辺りに登り口があるとのことだったが、この先は倒木で進みにくくなっていた。

林道途中の駐車スペース

 登り口を探したが、どうも見つからない。

 少し藪が開けた場所から登ってみたが、道なき急斜面で、足を滑らせて転び、カバンが泥まみれになった。

 一度登山を諦めて集落に戻った。庭先で作業をしている男性に登り口を尋ねると、葛下橋西詰から北に行った先にある墓地から城跡に登ることが出来ると教えてもらった。

墓地からの登り口

 墓地に至ると、その脇に舗装された道がついていた。

 墓地の前に駐車し、墓地脇の舗装された急坂を歩いて登った。

急坂

 息が切れるほどの急坂だ。この坂を登りきると、貯水タンクがある。

貯水タンク

 貯水タンクの前で回れ右をすると、左に城跡への道が続いている。

左が城跡への道

 城跡への道は、足元が狭い。なかなか歩きにくい。

城跡への道

 美作地方は数日前に寒波に覆われ、降雪したようで、足元が泥のようになっている。足を取られながら進むと、堀切と土橋が見えてきた。

堀切と土橋

堀切

 堀切を過ぎて暫く歩くと、高い切岸が見えてきた。城の主郭に到達したようだ。

切岸

 切岸に登り始めると、石塁のようなものが目に付いた。

石塁

 葛下城は、応仁の乱に乗じて赤松旧領を回復した赤松政則の時代に、赤松氏の代官大河原大善大夫が築城したと伝えられる。

 天文十三年(1541年)には、尼子氏の支配下に移った。永禄九年(1566年)には毛利氏の支配下に移った。

 天正十一年(1582年)の本能寺の変を受け、秀吉は敵対していた毛利氏と和議を結んだ。その条件が、高梁川以東を秀吉側の宇喜多氏に割譲するというものだった。

 葛下城主だった浅山氏は、和議に反対して籠城した。浅山氏は、毛利氏の説得により、天正十二年(1583年)に城を明け渡すことに同意したが、城明け渡しに際し城に火を放ち自刃した。葛下城は廃城となった。

城の主郭、官兵衛丸、二の丸、本丸

官兵衛丸

 切岸を登ると、官兵衛丸、二の丸、本丸の三段になった城の主郭が現れる。官兵衛丸は、一面笹に覆われている。

二の丸

二の丸から見た本丸の切岸

 官兵衛丸の上の段の二の丸跡は、帯状の曲輪である。

 本丸跡は、標高約370メートルの葛下城跡の最高部である。

本丸跡から見下ろした二の丸跡

本丸跡

 本丸跡からは、南東の津山盆地方面が見通せる。この日の朝、中国縦貫自動車道を走行していると、津山付近では雨が降っていた。

 本丸跡に到達したのは、午前10時ころだったが、津山盆地の方を見ると、一面が雲海に覆われていた。

津山盆地を覆う雲海

 山に囲まれた盆地であるため、雲が滞留したのだろう。

 もっと望遠機能の強力なカメラで撮影すれば、いい写真が撮れただろう。私の写真では、現地でこの景色を見た感動の一部しか伝わらない。

 また本丸跡から北東を眺めると、山頂付近に雪が残る1,000メートル級の山が見える。

北東の山々

 城跡もいいが、自然の風景は偉大である。国破れて山河在りとはよく言ったものだ。

 最近少子高齢化で、いずれ日本人は絶滅すると言われ始めたが、例え日本人が絶滅しても、この偉大な風景は長い間変わらず存在するだろう。