平荘湖古墳群

 湖に沈んだ古墳。詩的な空想をかき立てさせられる言葉だ。

 兵庫県加古川市平荘町池尻にある平荘湖は、昭和41年に、東播磨地域の工業地帯に工業用水を安定供給するために建設されたダムによって出来た人造湖である。

 平荘湖が出来る前は、一帯には100基を超える古墳群があった。平荘湖が出来たことにより、古墳の多くは水没してしまった。

 今でも湖の周辺には、古墳が点在している。また、湖の水位が下がった時には、普段水面下にある古墳の石室が顔を覗かせる。

f:id:sogensyooku:20191125184016j:plain

平荘湖

 平荘湖古墳群は、別名池尻古墳群と呼ばれている。発掘された遺物は、加古川市総合文化センターに収蔵されている。

 湖の北側の駐車場に車をとめて、反時計回りで平荘湖の周囲を歩き始めた。

 歩き始めてすぐ目に入る池尻21号墳は、6世紀後半の円墳の石室跡である。

f:id:sogensyooku:20191125184452j:plain

池尻21号墳

 池尻21号墳は、平荘湖建設時に調査されたが、既に盗掘されており、遺物は見つからなかった。

 21号墳のある場所から湖畔に下りると、そこには半ば水没した石室があった。

f:id:sogensyooku:20191125184910j:plain

水没した石室

 平荘湖は、徒歩なら大体1時間で1周することが出来る。湖の周辺には、ウォーキングやジョギングをする人々、湖畔でくつろぐ人々が多い。市民に愛されている湖だ。

 湖の西側には、升田山15号墳がある。

f:id:sogensyooku:20191125185322j:plain

升田山15号墳

 升田山15号墳は、6世紀の古墳である。立派な石室を有している。

f:id:sogensyooku:20191125185718j:plain

升田山15号墳石室入口

f:id:sogensyooku:20191125185809j:plain

f:id:sogensyooku:20191125185935j:plain

 石室の入口は、立って歩いて入れるほどの高さである。石室から入口を見返ると、古代の人が空想した黄泉の国はこういうものかと思ってしまう。

f:id:sogensyooku:20191125190204j:plain

石室から入口を見る

 それにしても立派な石造物である。6世紀というと、大陸から仏教が伝来した世紀である。日本が新しい時代の扉を開いた時期だ。

 加古川市総合文化センターには、升田山15号墳から出土した遺物を展示している。

f:id:sogensyooku:20191125193629j:plain

升田山15号墳出土品

f:id:sogensyooku:20191125193714j:plain

 馬具や須恵器などが発掘されたようだ。馬具があったということは、かなり高位の人物が埋葬されていたのではないか。

 古墳時代には、乗馬という文化が大陸から渡ってきたが、乗馬は日本の文化に革新を齎しただろう。

 さらに平荘湖を歩く。湖の南側にある弁財天社には、竜山石製の家形石棺の蓋が置かれている。

f:id:sogensyooku:20191125194307j:plain

家形石棺

 この立派な家形石棺の蓋は、湖底に沈んだ池尻16号墳にあったものだという。

 かつて姫路藩主榊原式部大輔が鷹狩りにこの地を訪れた時に、16号墳の石棺を見て気に入り、姫路城下に運ぼうとしたが、あまりの重さに人夫たちが加古川市志方町のあたりの峠に放置したという。

 その後石棺の蓋は弁財天社に置かれた。石棺の身の部分は、志方町投松(ねじまつ)に今もある。身の寸法は、この蓋と寸分違わず合うそうだ。

 さらに歩く。元の駐車場に近づいてきた。平荘湖の北側には、古墳が多く残る。その中で石室が残っている池尻8号墳を覗く。6世紀の古墳である。

f:id:sogensyooku:20191125195615j:plain

池尻8号墳

f:id:sogensyooku:20191125195745j:plain

f:id:sogensyooku:20191125195828j:plain

 池尻8号墳からは、馬具や鉄剣などの武具が発掘されている。

f:id:sogensyooku:20191125200052j:plain

池尻8号墳出土品

 平荘湖古墳群の中には、渇水時にのみ姿を現わす石室があるが、私が訪れた時は、水が満々と湛えられて、見ることが叶わなかった。

 平荘湖ダムの下に埋もれた池尻2号墳と、完全に平荘湖の水底に沈んでしまったカンス塚古墳から発掘された出土品が、加古川市総合文化センターにある。

 池尻2号墳からは、衝角付冑が出土している。

f:id:sogensyooku:20191125200604j:plain

衝角付冑

 この冑は複製品ではなく本物だ。古墳時代の冑がどれだけ現代に残っているか知らないが、なかなかの一品だと思う。

 池尻2号墳とカンス塚古墳は、5世紀中ごろから後半にかけての古墳である。当時はまだ馬具や須恵器は日本には普及していなかったようだが、池尻2号墳からは、馬具や須恵器が出土している。先進的な文化を取り入れた人物が埋葬されていたのだろう。

 5世紀後半は、第21代雄略天皇が、武力による日本列島統一事業を進めていたが、この冑もそんな戦いの時代のものだ。 

 カンス塚古墳からは、長大な鉄剣や、首飾や鏡が出土している。

f:id:sogensyooku:20191125201302j:plain

カンス塚古墳出土の鉄剣

f:id:sogensyooku:20191125201343j:plain

カンス塚古墳出土の首飾り

 当時の人は、地上で最も価値のあるとされたものを、自分の遺体と一緒に埋葬させたのだろう。

 埋葬されたものは、当時最高級の工芸品であったろう。現代人が墓の中に持っていこうとするものが、1500年後に文化財として扱われるか想像してみると、心もとない。

 当時の古墳に埋葬された人たちの文化水準は、果たして現代人に劣っていたであろうか。そうは思われない。