兵庫県加古川市志方町永室にある大藤山長楽寺は、浄土宗の寺院である。
創建は、和銅六年(713年)。慈心上人が建立したとされる。最初は真言秘密の道場だったというが、和銅六年は空海が生まれる前である。創建時は真言宗の寺院ではなかっただろう。
長楽寺のご本尊は、延命子安地蔵菩薩である。木造地蔵菩薩半跏像として、国指定重要文化財となっている。
治承二年(1178年)、高倉天皇の中宮・建礼門院のお産の時、天皇は、各地の寺社に安産祈願をしたが、効果がなかった。そこで丹波国老の坂の地蔵尊に勅使を立てて安産祈願をしたところ、建礼門院の状態がよくなり、無事に出産した。生まれたのは、第81代安徳天皇である。
喜んだ高倉天皇は、平清盛に命じて、同体の地蔵尊を66体作らせ、日本六十六州に各一体づつ安置させた。
そのうちの一体が、長楽寺の木像地蔵菩薩半跏像である。
天正六年(1578年)の秀吉の播磨侵攻によって、長楽寺は全焼したが、木造地蔵菩薩半跏像だけは難を逃れた。
それにしても、播磨の寺社巡りをして思うのは、秀吉の播磨侵攻で焼かれた寺社が非常に多いということである。当時の寺社は兵力を蓄えていた。秀吉に抵抗したのだろう。
秀吉は、歯向かう者には容赦しないという信長の方針を忠実に履行したのだろう。人命と貴重な文化財が失われたものの、戦乱の世を終息させ、新しい時代を実現するためには仕方がなかったと言えるかもしれない。難しい問題だ。
さて、地蔵菩薩と言えば、日本人なら道端に佇む「お地蔵様」を思い浮かべるだろう。だが長楽寺の木像地蔵菩薩半跏像の姿は、「お地蔵様」の固定観念を覆す。
秘仏なので、長楽寺ホームページの写真を掲載する。
胸をはだけて、少しエロチックですらある。ちょっと衝撃を受けた。
境内には、鐘楼があるが、格天井が見事な鐘楼であった。
天正の兵火の際、長楽寺の住職が鐘を抱えて北方に逃げて、鐘を長楽寺の北にある蛇が池に沈めた。今でも池に棲む大蛇が鐘をしっかり抱いていると伝えられている。水が減って、鐘の竜頭が水面から頭を出すと、必ず雨が降ると言われている。
長楽寺は、宝永三年(1706年)に専空念教法師が再興し、それ以来浄土宗西山禅林寺派の寺院となった。
しかし、残念ながら平成23年9月4日の台風に伴う土砂崩れによって、本堂は全壊してしまった。
本堂の建っていた場所は、今は何も残っていない更地である。説明板にありし日の本堂の写真と全壊時の写真があった。
本堂が凄まじい土砂に襲われたのが分かる。本堂跡の背後には、砂防ダムが出来ていた。
再建には2億円かかるらしい。最近沖縄の首里城が焼失したが、文化財は常に災害や火災による崩落や焼失の危険にさらされている。
これからの日本は、気候変動に起因する災害に見舞われることが増えてくるだろう。私は史跡巡りを始めて、今まで当たり前のものと思ってきた土木工事の重要性に気がついた。文化財だけでなく、人々の生活を守るために、「安全保障としての土木工事」という発想が必要なのではないかと思う。
境内には、13世紀中頃の十三重層塔の基礎石と笠石とされる石造物がある。お地蔵様の下に土台のように置かれている。
基礎石は、高さと幅の比率からして、相当古式のものであるらしい。
その隣には、長楽寺の石幢と呼ばれる石造物がある。
重制の六面石幢の塔身部であるらしい。室町時代(16世紀)の石造物であるそうだ。
その隣には、構の石棺と呼ばれる、古墳時代後期の石棺が置かれている。
組み合わせ式石棺の底石だが、元々は近くの集落にあったものだそうだ。
昔はこういう石造品に見向きもしなかったが、史跡巡りを始めてから古い石造品が目に入ると気になるようになった。
当ブログは、過去のことばかり書いているが、これからの日本がどうなっていくのかも気になるところである。
これからの時代は、気候変動による自然災害の増加、少子高齢化による社会保障費の増大と労働力の減少、それに伴う外国人労働者の増加とAIの活用が否応なしの問題になるだろう。
則ち、災害が増え、異文化が日本に流入し、日本の祭礼行事を支えてきた若者が減っていくということである。
今までの日本文化にとっては、厳しい時代がやってくるのかも知れない。しかし、努力によっては、そこから何か予想もしなかった新しいものが生まれてくるのかも知れない。そう思うと、わくわくしてくる。
更地になった長楽寺の本堂跡を眺めながら、そんなことを考えた。