そんな町並みの中にあるのが、高砂町横町の宝瓶山(ほうびょうさん)十輪寺である。
空海が遣唐使として唐に向けて航海中、海上安全を地蔵菩薩に祈願したところ、高砂沖で霊感を受けて無事に所願成就した。
帰朝後空海は、地蔵十輪経の趣旨に則り、鎮護国家、航海安全の祈願所として十輪寺を開いた。弘仁六年(815年)のこととされている。
十輪寺山門は享保二十一年(1736年)の築で、高砂市指定文化財である。
建永二年(1207年)3月に、法然上人が船で讃岐に左遷される際に、この地の漁民の求めに応じて上陸した。法然は、殺生をする漁民であっても称名念仏をすることによって極楽往生できると教化した。その時から、真言宗の寺院だった十輪寺は浄土宗の寺院となった。法然上人を十輪寺中興第一世とする。
山門を潜ると、目の前に現れるのは、二重寄棟造の本堂である。兵庫県指定文化財である。
本堂は、十輪寺中興第二十四世、律空悦道上人が、元禄六年(1693年)に入山して再建したものである。17世紀の様式を伝える。
本尊は阿弥陀如来だが、その他に寺宝として、国指定重要文化財の絹本着色五仏尊像図(中国元時代)、兵庫県指定文化財の弥陀四尊図(鎌倉時代末期)、高砂市指定文化財の不動明王二童子図(室町時代初期)がある。いずれも見学できなかった。
御影堂には、大永七年(1527年)に、堺の十万上人が、法然上人流罪の地である讃岐生福寺よりこの地に移した、自画讃の「宝瓶の御影」を安置している。
本堂と御影堂をつなぐ回廊のかたわらに、高麗仏といわれる宝篋印塔がある。
秀吉の朝鮮出兵の際に、洲本城主だった脇坂安治が、播磨・淡路の漁師を水夫として徴発し、従軍させた。漁師らは、帰国の途中、高砂沖で遭難し、100人中96人が水死したという。それらの人々を追善するために、享保十五年(1730年)に建立された供養塔である。
数えてはいないが、宝篋印塔の周りの小さな石塔は、96柱あることだろう。
回廊を潜って本堂の裏手に回ると、広大な墓地となっている。
墓地の中央には、中世の高砂城主、梶原景秀公の墓がある。
鎌倉幕府の創立に貢献した梶原一族は、水軍を率いてこの地に至り、文明元年(1469年)ころ、中世高砂城を築いた。天正七年(1579年)、最後の城主梶原景秀は、黒田官兵衛の仲介で秀吉に帰巡した。その子孫の一部は高砂に留まり、塩座役などを務めたという。
近くには三浦一族の墓地がある。
三浦一族は桓武平氏の流れを汲み、鎌倉幕府創立に貢献した。以後三浦半島を中心に栄えたが、北条早雲に滅ぼされて、永正十五年(1518年)ころ、幼君義高公が梶原氏を頼って高砂に亡命してきた。その子孫は、江戸期を通じて「塩や甚兵衛」を名乗り、大庄屋を務めるなどし、行政面や学問の世界で功績を残した。
墓地の片隅には、工楽松右衛門の墓がある。
工楽の墓は、モダンな形をしている。江戸時代の日本の港湾整備や帆船の改良に尽力した偉人の墓である。
庫裏の玄関内を覗くと、黒光りのする太い梁と柱が交差する重厚な建物だと分かった。
ちなみに十輪寺前には公園があるが、これは昭和59年まで利用されていた国鉄高砂線高砂駅の跡地である。
加古川高砂間を鉄道が結んでいたというのは、今からは想像できない。それにしても、廃線というものにも独特の哀愁がある。
さて、今回知った十輪寺を巡る人物達を思い返すと、ほとんどが航海に関連していることに気づいた。高砂は、航海上の重要地点なのだろうか。高砂の地を一度海上から眺めてみたいと思った。何か発見があるかも知れない。