備前国長船は、古くから日本刀の一大産地として有名である。日本で国宝・重要文化財に指定されている刀の約半数は、備前長船で作られたものである。
中国山地で採取される良質な砂鉄は、日本刀の原料として優れていた。中国山地には、砂鉄から玉鋼を作るための、たたら製鉄に必要なクヌギが自生していた。
南北に貫流する吉井川は、水運が古くから発達し、日本刀の原材料を運ぶのに適していた。長船の地は、山陽道と吉井川が交差する場所にあり、人、物、文化が交流する拠点だった。完成した刀を出荷するにも、吉井川を下ればすぐ瀬戸内海に至る。
岡山県瀬戸内市長船町長船にある、「備前おさふね刀剣の里」は、備前長船刀剣博物館、鍛刀場、刀剣工房、今泉俊光刀匠記念館などの、博物館と刀剣工房が集合した施設群である。
まずは、備前長船刀剣博物館を訪れる。この博物館は、全国でも珍しい日本刀専門の博物館である。
館の入口に、「山鳥毛里帰りプロジェクト」の広告が張られていた。山鳥毛というのは、備前長船で作刀され、上杉謙信が愛用し、上杉景勝に伝えられた刀の銘である。現在国宝となっていて、戦後上杉家から岡山県の愛刀家の手に渡り、現在は岡山県立博物館に寄託されている。
この山鳥毛は、無銘だが、作風から鎌倉時代中期に長船の福岡一文字派によって作られたものと見られている。
その炎の燃え立つような激しい刃文は唯一無二であり、備前長船刀の最高峰と言われている。
この山鳥毛を、瀬戸内市が寄付を募って購入し、里帰りさせようとしている。それが山鳥毛里帰りプロジェクトであるそうだ。
博物館では、「長船の郷土刀」というテーマ展の最中だった。
一階には、日本刀が出来るまでの作業工程を説明した展示がされていた。
日本刀の原料は、良質の砂鉄から、たたら製鉄によって作られた玉鋼である。
この材料の玉鋼を叩いては伸ばし、熱して折り返しては叩いて鍛え、鍛錬を繰り返していく。刀身を伸ばして行き、最後は研いで日本刀の姿に整えていく。
こうして鍛錬の末に完成した日本刀は、技術の粋と言っていいだろう。
日本刀の刃文や切先にも様々な名称があるようだ。
1階には、日本各地の日本刀が展示されている。私には、どんな日本刀がいいものなのかを鑑識する力がないので、どうしても素人の感想になる。
写真の銘:忠廣は、肥前国の藤原忠廣の作であるそうだ。反りが少なく、刃文も美しい。日本刀の世界では、慶長以後の刀は新刀と呼ばれ、新しい刀とされる。
次の長船の祐定作の短刀などは、明治時代の短刀だが、刃文が波打っていて面白い。
2階に上がり、テーマ展の「長船の郷土刀」を観る。
銘:秀景の槍は、応仁の乱の頃の作であるという。槍は実戦で使用されて消耗することが多く、現存するものは少ない。貴重な資料である。
次の勝光作の鎧通しは、足利義尚が、近江の六角氏を攻める時に、赤松政則に頼んで長船の刀匠勝光を参陣させ、作刀させたものである。長享二年(1488年)の作だ。
刀身に梵字が刻まれている。このような彫刻は、彫金師が刻む。
鎌倉時代後期の元重作の太刀は、刀身が長く、反りがあっていいものである。
鎌倉時代には、騎馬戦で使い勝手が良いように、長大で反りが強い太刀が主流であった。足軽戦が主流になる戦国期には、接近戦がしやすいよう刀身が短くなり、反りが少なくなる。
この太刀の鞘や拵えは江戸時代のものである。
刀は刀身だけでなく、柄頭や鍔の金具、柄巻の拵、鞘の塗りなども含めて、一級の工芸品である。
昨日の石上神社の記事でも触れたように、日本の歴史は刀剣が切り開き、刀剣と共に歩んできた。戦いの歴史というものは、血生臭いものだが、これもまた歴史の一面である。
人と共に戦い、人から恐れられ、人を魅了してきた刀というものの由来と歴史も、興味深いものだ。