姫路市香寺町溝口にある円覚寺のすぐ南側に、溝口廃寺跡がある。
この廃寺は、発掘された瓦の文様などから、奈良時代前期の寺の遺跡だと言われている。
今では、叢の中に、かつての礎石が点々と残っているのみである。
特に中心にある礎石には、大きな柱穴が開いている。かつてこの上に建っていた塔の心柱がはまっていたのだろう。
溝口廃寺跡から発掘された瓦は、兵庫県立歴史博物館に展示されていた。
心礎の柱穴の大きさからすれば、結構な高さの塔が建っていたのではないかと推測できるが、古代のこの地域の中では一際目立つ塔だったろう。
最近、何だか廃寺に心惹かれる。
溝口から北上すると、姫路市香寺町恒屋という地域に入る。ここにある城山の山上にあるのが、恒屋城跡である。
恒屋城のある城山は、標高236メートルの高さである。
恒屋城が築かれたのは、室町時代中期の嘉吉から長禄のころと言われる。丁度赤松惣領家が嘉吉の乱で一度滅んで、長禄の変で再起するまでの間である。
初代城主は、恒屋重氏といわれている。恒屋氏は、赤松惣領家に仕えていた一族である。嘉吉の乱の時も赤松満祐の幕下で戦い、長禄の変の時も神璽を奪うために吉野に潜入したと言われている。
重氏から数えて5代目の政直の時に、織田軍の播磨侵攻に直面する。恒屋城は、天正五年(1577年)、秀吉軍の攻撃により落城したと伝えられるが、確かなことは記録に残っていない。恒屋城のすぐ西側には、赤松惣領家の置塩城がある。赤松則房は、天正五年に秀吉に降伏したとされている。恒屋城の陥落を知って、もはや織田軍には抵抗できないと悟ったのかも知れない。
恒屋城は、前城と後城とから成っており、前城には登り始めて割合すぐに到達できる。
前城の手前には、お堂があり、歴代恒屋氏当主が祀られている。
恒屋城跡は、木が切り倒され、草も刈られて、見晴らしが良くなっている。地元住民が城跡を大切にしているのだと思う。前城は、出城のように南に突き出ている。ここからの眺めはいい。
前城跡の下には、供養塔と目される石が並んでいる。
恒屋城は、落城時に焼き討ちされたとも伝えられる。しかし、恒屋氏は滅亡しなかった。恒屋与左衛門が、秀吉の軍師であった黒田官兵衛孝高に仕え、福岡藩に300石で召し抱えられた。幕末まで恒屋氏は武家として存続したらしい。
赤松氏に仕えて秀吉に抵抗した恒屋氏が、なぜ黒田家に拾われたのか、その辺の消息は分からない。
前城から平坦な道を北上する。恒屋城は、斜面に竪堀を掘っており、これが現状で残っているのは珍しいそうだ。
後城の入り口には、虎口という門の跡があった。
虎口を抜けて進むと、後城に至る。後城も、よく草が刈られて眺めがいい。
私が今まで訪れた山城は、本丸跡に登っても、木が鬱蒼と茂って、四囲が見渡せない場所ばかりだったが、恒屋城は360度周りを見下ろすことが出来る。非常に心地よい。
面白いことに、昭和10年ころに、恒屋城に財宝が眠っているというガセ情報を基に、何者かが盗掘しようとした時の穴が残っている。
説明板の後ろの穴がそうである。盗掘跡ですら時間の経過とともに「史跡」になってしまう。史跡には人間の性(さが)が表れる。愉快ではないか。
後城から南側を眺めると、播州平野が見下ろせる。気持ちの良い風が吹き抜ける。
恒屋城が築城されたころから、戦国時代を超えて現代まで、変わらないのはこの景色と風だろう。
恒屋城跡に立って、何だか戦国の息吹を感じた。