兵庫県宍粟市波賀町は、町の中心を国道29号線が通っている。国道29号線は、姫路市から鳥取市までをつなぐ国道である。かつての因幡街道も、ほぼ同じ場所を通っていたことだろう。
この国道29号線を見下ろす要害の地に、波賀城蹟がある。標高約450メートルの城山の山上に、公園が整備され、復元された櫓が建っている。
平成元年に竹下内閣が行った「ふるさと創生事業」で、全国の地方自治体に交付された1億円を使って、当時の宍粟郡波賀町が復元した櫓である。
まずは城山の麓にある「波賀歴史伝承の家」を訪れた。波賀歴史伝承の家は、築約300年の古民家を移築したものである。
猛暑日に訪れたが、この時代の民家は障子を開け放すと、吹き曝しとなって風が通るので、過ごしやすかった。
波賀歴史伝承の家は、無人であって、入場も無料である。中には、昔の農家が使った古民具などが展示してあった。
しかし私の印象に残ったのは、ただただ風通しが良くて心地よいということだった。当時の日本家屋は、軒庇が長くて、家の周辺を長い陰が覆うようになっている。そして障子を開ければ、風が屋内を通り抜けることになる。
逆に冬は相当寒いだろうが、日本の民家は、冬よりも暑い夏をいかに過ごすかということに工夫を凝らしているように思う。
波賀城がある城山には、車で山頂近くまで上がることが出来る。山頂近くに大きな駐車場がある。
駐車場から櫓まで歩く間、ところどころに石垣の残骸と思われる石がごろごろ転がっている。
ここがかつて城であったことを示すものだ。
ところで波賀城の歴史については、あまりよく分かっていない。波賀町は昔伯可荘と呼ばれ、石清水八幡宮の社領であったらしい。伯可荘の有力者芳賀七郎という伝説上の人物が、最初に城を築いたとされる。
鎌倉時代に、武蔵国秩父郡から移ってきた御家人中村氏が波賀の地頭となり、以後中村氏が、初代光時から戦国時代末期の吉宗まで、20代に渡りこの地を領した。
波賀城蹟の入り口には冠木門が建っている。すぐ脇に管理事務所があるが無人である。入場は無料である。
しばらく歩くと、復元された櫓が見えてくる。
この櫓、完成したのは平成7年である。新しい建物だが、戦国時代の櫓はこんな感じではなかったかと思わせる素朴で古めかしいものであった。
下を見下ろすと、ここが因幡街道を扼す要衝であることが実感できる。この城ある限り、鳥取には抜けられまい。波賀城落城の記録は残っていないが、秀吉が鳥取城を攻略する前には、波賀城は陥落していたものと思われる。
屋根は杮(こけら)葺きという、薄い板を何枚も重ねたものである。
櫓は、波賀城学習資料館として、内部を公開している。内部は無人である。
内部には、波賀城の年表が壁に貼られている。ガラスケースの中の展示品も、古文書などではなく、平成になって地元の人が波賀城や中村氏の歴史について書いた文書であった。
内部はまだ木の香りがして清々しかった。よく見ると、釘を使っていない木造建築物である。大工が腕を振るって作ったのではないかと思われる。
波賀城の石垣も平成に入って復元されたものである。平べったい石を積み重ねた、天正年間より前の様式が復元されている。
波賀城主中村氏は、中世は赤松氏に臣従していたものと思われる。播磨が秀吉に平定されてからは、中村氏は歴史の表舞台から姿を消した。
しかし、実際に建物を復元すると、史料に乏しい波賀城も、具体的な物として心に刻まれる。
竹下内閣の「ふるさと創生事業」では、1億円の使い道は各自治体のアイデアに任せられた。中には疑問を感じる使い方をした自治体もあった。
波賀城を復元した波賀町という自治体は、平成17年に宍粟市に合併されて無くなってしまったが、なかなか良いものを復元したと思う。この波賀城蹟は長い間残るのではないかと思われる。