兵庫県宍粟市一宮町三方町の家原(えばら)遺跡は、縄文時代から中世まで存在した集落の遺跡である。
今では遺跡の発掘も終わり、家原遺跡公園として整備され、古代から中世の建物が復元されている。
家原遺跡からは、縄文時代の竪穴住居の遺跡が見つかっている。今から9000~6000年前の縄文時代早期には、ここに人が住み始めていたそうだ。
復元された縄文時代の竪穴住居は、隅の丸まった方形の住居である。床の真ん中に、石で囲んだ炉がある。復元された建物は、縄文時代中期後半(約4000年前)のものらしい。そんな昔から、入母屋造りの建物があったことに驚く。炉で木材を炊いて出た煙を出すために必要な造りだったのではないか。
隣には、弥生時代の竪穴住居が復元されている。こちらは円形の入母屋造りである。
私が遺跡公園を訪問した日は、猛暑日だったが、窓もなく風通しのない筈の竪穴住居の中に入ると、ひんやりして快適であった。下手に冷房を効かせた現代の住居よりも涼しいような気がする。
おそらく湿気を萱が吸収するからだろう。
次に古墳時代の建物を見る。定番の高床式倉庫がある。柱にネズミ返しがついている。貴重な穀物を守る仕掛けだ。
古墳時代の竪穴住居も立派な入母屋造りで、内部に竈がある。
以前、赤穂市有年の遺跡では、建物外の竈の排煙口の写真を撮り逃したが、今回はばっちり写すことが出来た。
古墳時代の夕飯時には、集落の竪穴住居の排煙口から、煙が上がっていたことだろう。
高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり
これは、「新古今和歌集」に載せられた、第16代仁徳天皇の作と言われる和歌である。
仁徳天皇は、皇居から村の様子を見て、民家の竈から煙が上がっていなかったので、民が生活に苦しんでいることに気づき、皇居が荒廃するのも構わずに、3年間徴税を停止した。
この歌は、3年後、天皇が民家から煙が上がっているのを見て、民の暮らしが良くなったと喜んだ時に詠った歌だとされている。「日本書紀」に書かれた、聖帝と言われる仁徳天皇の有名なエピソードである。
仁徳天皇は、西暦400年前後に在位したとされるが、古墳時代の真っただ中である。この歌を仁徳天皇が実際に詠ったかは分からないが、もしそうだとしたら、仁徳天皇が見た煙は、このような排煙口から上がっていただろう。
さて、家原遺跡で画期的なのは、発掘された掘立柱跡などを参考にして、中世の建物が復元されていることである。
家原遺跡のある辺りは、平安時代や鎌倉時代には、三方庄と呼ばれる荘園であった。
この復元された建物は、平安時代末期から鎌倉時代に、この地域で最も重要な建物だったものである。
おそらく荘園の現地管理者が住んだ家ではなかったか。建物には、中門廊と呼ばれる出入口が付けられているが、当時地方の有力者達が、京の貴族が住んだ寝殿造りに憧れて、居宅に付けた設備であるらしい。
鎌倉武士の地頭なども、こういう家に住んだのではないか。
公園内には、さらに2棟、中世の建物が復元されている。
屋根は板葺きだが、当時は瓦葺きの屋根など、豪華過ぎて寺院などでしか使っていなかった。
現代人がいかに豊かな暮らしをしているかが分かる。
さて、家原遺跡公園には、宍粟市歴史資料館がある。宍粟市に合併される前の旧一宮町の町役場を再現した瀟洒な建物だ。
資料館に入ると、電気設備の故障で、照明と冷房が切れていた。
一部の照明は点いていたので、暗い中、展示品の写真を撮った。
宍粟市一宮町にある、4世紀後半に造られた前方後円墳、伊和中山1号墳からの出土品が目を引いた。
写真の通り、鏡、勾玉、剣という、皇位継承の印・三種の神器と同じ組み合わせが、伊和中山1号墳から出土しているのである。伊和中山1号墳は、大和政権につながる有力者の墓だったのではないか。
この三種の神器セットは、弥生時代の遺跡である福岡市の吉武高木遺跡からも出土しているが、4世紀には全国に広まっていたのだろう。
今年5月1日に、令和の新天皇が、宮中で行われた剣璽等承継の儀で、剣と璽(勾玉)を承継されたが、古墳時代の文化に繋がる政権が、今も日本に君臨しているということになる。
鉄剣の隣には、古墳から出土した鉄製の鎧も展示してあった。鉄器は腐食しやすいが、なかなか状態が良かった。
家原遺跡公園から少し西に行き、河原田という集落に入る。
河原田の八幡神社の境内に、兵庫県指定文化財である河原田農村芝居堂がある。
向かいに鎮座する八幡神に芝居を奉納するための芝居堂である。明治36年(1903年)に建てられたものである。
この芝居堂は、輪軸を応用した廻り舞台や、滑車を利用した吊り2階、返し壁を備え、農村芝居堂としては凝った作りらしい。
昔は、村の若者たちが、ここで神様に奉納する芝居を演じたのだろう。
史跡巡りを始めてから、播州の山間部に農村芝居小屋が沢山あることを知ったが、中国山地の神楽のように、一時播州では農村芝居が盛んだったのだろう。
普段は農作業にいそしみ、時期が来れば収穫を感謝して地元の神様に芝居を奉納するという、昔の素朴な農村共同体の姿を懐かしく思った。