赤穂城

 赤穂城が現代の形となったのは、正保2年(1645年)、常陸笠間から浅野長直が入封してからである。赤穂城は、慶安元年(1648年)から寛文元年(1661年)まで、完成に13年の歳月が費やされた。甲州流軍学者近藤正純が設計した海岸平城である。

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江戸時代の城と塩田の位置

 今からは想像もつかないが、江戸時代には、赤穂城の半分は海に囲まれていた。

 江戸時代に赤穂城に出入りするには、北側の市街地から、大手門に入るルートしかなかった。

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大手門

 大手門を入ると三の丸である。入ってすぐに番所があり、そこから曲がりくねった道を通って、大石邸や近藤邸などのある家臣団の住居地区に至ることになる。

 海に囲まれていない北側の防備のため、周到に設計されたのが分かる。

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右の白壁の塀が大石邸跡、奥に近藤邸長屋門が見える。

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大石邸跡から望む二の丸石垣

 そこを通過すると、二の丸に入る。二の丸門は今はない。二の丸門跡の近くに、赤穂に配流された儒学者軍学者山鹿素行の像がある。

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山鹿素行

 山鹿素行は、当時官学であった朱子学を批判する内容の「聖教要録」を執筆したことで、幕府の忌諱に触れ、赤穂に配流となった。

 赤穂滞在時の寛文九年(1669年)、山鹿は「中朝事実」を執筆する。当時の日本は、儒学を尊重するあまり、中国文化を崇拝して日本を貶める風潮があったが、山鹿は、何度も王朝が変遷し、今や満州族である清朝が支配する中国よりも、太古より万世一系天皇を戴く日本こそが君臣の義を弁えた中朝(中華)であるという考えを述べた。いわば尊王思想の先駆けである。山鹿の思想は、幕末の尊王攘夷運動の原動力になる。

 山鹿が同輩の儒学者たちに、もし中国が孔子を先頭にして日本に攻めてきたらどうするか問うたところ、孔子を尊敬する儒学者たちは答えるのを躊躇った。山鹿は即座に自分は孔子を叩き切って戦うと答えたという。

 山鹿素行を召し抱えた浅野赤穂藩には、山鹿の思想が伏流していたことだろう。

 今の赤穂城二の丸には、二の丸庭園が復元され、国の名勝となっている。

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二の丸庭園

 二の丸庭園は、なかなかの名園である。平成になってから復元された池泉庭園だ。

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本丸門に向かう

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本丸門

 二の丸から本丸門を潜れば、本丸に入ることになる。本丸門は、平成8年3月に復元された。今の赤穂城の姿は、ほとんどが平成に入って修復され、出現したものである。

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本丸御殿跡

 本丸の中には、かつて本丸御殿があった。今は、本丸御殿の部屋割りを復元したセットが設置されている。広壮な御殿だったことが分かる。龍野城よりも相当広い。赤穂藩が豊かな藩であったことが分かる。

 本丸内には、本丸庭園がある。これも国の名勝である。

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本丸庭園

 また、財政難か幕府への遠慮から、天守閣が建てられることはなかったが、天守台と称する石垣は残っている。

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天守

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天守台の説明板

 本丸から南に進むと、厩口門がある。

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厩口門

 江戸時代には、厩口門の南には、二の丸の郭があって、その南は海であった。

 赤穂藩は、小藩であったが、赤穂城は藩の規模の割には立派な城である。

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本丸の石垣と堀

 赤穂城は、デルタ地帯の上に建てられた城である。地下を掘っても、海水が出てくる。

 飲料水と池泉庭園の水の確保のため、赤穂藩では土管を使った上水道を整備し、上流から町や城に真水を引いていた。

 赤穂城は、当時非常な工夫をして作られた城である。海岸近くに建てられた城は全国的にも珍しい。

 大半が平成に復元されたにしても、今の赤穂城は、見所が多い。時間をかけてでも、なるべく元の姿に戻していこうという姿勢があるからいいのだと思う。

 大事なことは過去を尊重する姿勢である。