坂越から赤穂御崎方面に走ると、赤穂市立美術工芸館田淵記念館がある。
赤穂は、製塩で有名である。江戸時代に赤穂で塩田経営、塩問屋、塩廻船業で財を成したのが、田淵家である。
田淵家は、最盛期の文化文政年間(1804~1830年)には、約106町歩の塩田を有し、当時日本最大の塩田地主であった。
歴代田淵家当主は、茶の湯を嗜み、田淵家の屋敷と庭園は、茶趣のもとに造営されている。田淵家庭園は、平成18年5月に国指定名勝となった。
田淵家庭園は、毎年11月に一般公開される。私が訪れた日は、拝観することができなかった。外から屋敷周りを見たが、広壮な邸宅である。
田淵家は、平成6年に所蔵する茶道具などの美術品や古文書を赤穂市に寄贈した。それらの品を展示する施設として、平成9年に田淵記念館が開館した。
田淵記念館は、田淵邸の南隣に建っている。私が訪れた時は休館日であった。
今後史跡巡りをしていく過程で、目的地が休館日だったり、建物が修復中であることなどが続出するだろう。ネットで事前に調べれば、そんなことは分かるのだが、私は、1日に複数の史跡を巡るので、特に遠方の史跡に行く場合、複数の目的地の1つが休館しているからといって、行くのをためらうと、その地域に行くタイミングを失してしまう。なので、行き当たりばったりに近い状態で、取り敢えず行くことになる。
次なる目的地に向かう。赤穂の尾崎という地域にある天台宗明王山普門寺である。
ここには、国指定重要文化財である、木像千手観音座像がある。
この木像千手観音座像は、元々は京都の高雄山神護寺にあったが、応仁の乱の兵火を逃れるために、この地に移されたものらしい。様式から平安初期の作とされる。昭和25年に国指定重要文化財になった。
私が参拝した日は、本堂の千手観音座像の前で、チベット仏教の高僧のニチャン・リンポチェ師の講話が行われていた。ニチャン・リンポチェ師は、1934年にチベットに生まれ、仏教を深く学んだが、1959年に中国人民解放軍がチベットに侵攻した際に、ダライ・ラマと共にインドに亡命したそうである。昭和49年にダライ・ラマの命で来日し、ダライ・ラマ法王日本代表部となった。以後、日本の各大学でチベット仏教を教えているという。
それにしても、木像千手観音座像は、息を呑む美しさであった。1000年以上前の平安初期の作とされるが、今でも木の香りが漂ってきそうなみずみずしさだった。欅の一木造りだという。
普門寺のすぐ近くに、赤穂八幡神社がある。ここは、歴代赤穂藩主の崇敬が厚かった神社である。
ここが、予想外に立派な社殿で驚いた。藩主浅野内匠頭切腹後、赤穂城を幕府に明け渡した後に、大石内蔵助良雄がこの神社の敷地内に仮寓し、残務処理に当たったらしい。拝殿前には、大石内蔵助お手植えの櫨がある。
赤穂八幡神社は、応永十三年(1406年)に、現在の赤穂市鷆和地区から現在の地に遷座したそうだ。八幡大神は、第15代応神天皇のことであるが、源頼朝以来、武家からは尊崇されている神様である。この八幡神社も、歴代赤穂藩主の信仰のおかげで、立派な社殿が整備されたのであろう。
赤穂八幡神社の隣には、江戸時代まで八幡神社の神宮寺(神社に附属した寺院)であった、天台宗如来寺がある。
八幡神社にも、如来寺にも、赤穂義士ゆかりの遺品が残されているが、一般公開はしていない。
松之大廊下での刃傷事件の処罰として藩主浅野内匠頭が切腹した時に、赤穂藩筆頭家老だった大石内蔵助は、幕府から赤穂城の明け渡しを迫られた。大石は、浅野内匠頭の弟浅野大学による赤穂藩再興に一縷の望みを託し、籠城をやめて平穏な城の明け渡しを決断した。
その後、大石は、この赤穂八幡神社に仮寓して、赤穂藩家臣が路頭に迷わないように、藩の財産を各家臣に分与する事務処理を行った。
この時期の大石内蔵助は、幕府に対して、赤穂藩再興と、吉良上野介への処罰を嘆願していて、自分たちで吉良上野介を討ち取ることは考えていない。
元禄赤穂事件最大のドラマは、赤穂浪士の吉良邸への討ち入りの時とされるが、藩が取り潰された時に急に藩政を預かることになった大石内蔵助の、肩にかかる責任の重さと、それに伴う内心の葛藤もドラマだったと思う。
藩のナンバー2の責任を最後まで全うした大石内蔵助良雄の立派な人柄を思った。