昨日の記事で紹介した熊野神社と隣接して建つのが、修験道の大本山、五流尊瀧院である。
役小角の五人の弟子が開いた修験道の五流の寺院の一つがその元である。
承久三年(1221年)、承久の乱が勃発し、三井寺長吏であった後鳥羽上皇の皇子・覚仁親王が難を逃れてこの地に下った。
更に、乱に敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。
頼仁親王は、衰退していた五流の寺院と十二社権現宮(熊野神社)を再興した。五流の寺院は南北朝の頃まで繁栄したが、次第に衰微し、尊瀧院のみが残った。現在まで続いている尊瀧院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫と伝えられる。
延応元年(1239年)、後鳥羽上皇は隠岐で崩御する。翌元治元年(1240年)、一周忌に際して、覚仁親王と頼仁親王は供養のため、後鳥羽上皇御影塔を建てる。
この御影塔は、地盤から宝塔の頂まで約5メートルある。国指定重要文化財となっている。
熊野神社の境内に接するように建つのが、尊瀧院ほか四カ院三重塔である。私が史跡巡りで訪れた9つ目の三重塔である。
この三重塔は、文政三年(1820年)の再建である。岡山県指定文化財である。それでも、丁度200年前の建造物だ。凛とした建物である。
更に熊野神社の参道に接して、鐘楼が建つ。
ここにかかる梵鐘には、康正三年(1457年)の銘がある。岡山県指定文化財である。
鐘楼東方の本地堂には、木造十一面観音立像が祀られている。
尊瀧院の本堂は、この三重塔や本地堂のある場所から、約400メートル南にある。
境内の中には、茅葺の建物が建つ。恐らく大僧正の住居であろう。
本殿は、鉄筋コンクリート製の建物である。五流会館という建物と棟続きになっている。
五流会館には、大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車が、大久保家から永代供養のため奉納されているという。
またこの地は、南北朝時代の南朝側の武将児島高徳の出身地と伝えられ、児島高徳を祀る高徳社が建っている。
五流尊瀧院の中核となる建物は、護摩堂である。毎年旧暦正月23日に、護摩堂の前で修験道最大の行事であるお日待大祭が行われる。全国から山伏と信者が集まり、採燈大護摩が行われる。
護摩堂には役小角神変大菩薩を祀り、両脇侍として不動明王が左右に侍す。護摩堂の側には、神変大菩薩のブロンズ像が据えられている。
役小角は、舒明天皇六年(634年)に、大和国葛城上郡茅原郷にて、父大角、母白専女との間に生まれたという。姓は高賀茂氏である。幼時から葛城山、箕尾山、大峯山に修行し、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の開祖となった。
文徳天皇三年(699年)に讒言にあい、伊豆に流されるが、大宝元年(701年)に恩赦により茅原に帰る。
同年箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68歳。山頂には廟が建てられている。
実在の人物だろうが、後世に脚色された伝説に彩られ、実際の人物像はよく分かっていない。
役小角は、行基菩薩や弘法大師空海よりも前の時代の人物である。東播磨に仏教寺院を次々と建立した法道仙人と同時代の人だろう。古墳時代が終焉し、仏教や修験道という新しい宗教が勃興してきた7世紀の我が国の姿を、タイムスリップでもしてこの目で見てみたいものだ。
尊瀧院の更に約700メートル南には、新熊野三山の一つ諸興寺の跡がある。
諸興寺跡の隣には、頼仁親王の墓と伝わる五輪塔がある。皇族の墓ということで、宮内庁が管理している。
役小角は伝説に彩られた人物だが、役小角の伊豆配流がきっかけとなって、流浪した弟子たちが辿り着いた地に建てられたのが熊野神社であり、五流尊瀧院である。
その後頼仁親王による再興や、応仁の乱による焼失、明応元年の再建、正保四年の再建と、時代の転変を経ているが、この地に立つと、案外役小角の時代が薄皮を隔てたすぐ近くに息づいている気がしてくる。