鵤荘

 日本の長い歴史の間には、伝説となった超人的な天才が何人か現れた。弘法大師空海はその一人である。森鷗外に超人的天才という言葉を与えるには、少し躊躇するが、鷗外の医学衛生学文学演劇哲学歴史などに関する知識量と国語漢学の素養の高さは超人的である。頭の中に蓄えた知識量で量れば、鷗外はあるいは日本史上最大かも知れない。

 聖徳太子も、日本史上に現れた超人的天才の一人に数えてもいいだろう。

 兵庫県揖保郡太子町は、聖徳太子ゆかりの地である。推古天皇十四年(606年)、太子は豊浦宮で、推古天皇の御前にて勝鬘経(しょうまんぎょう)を講説された。仏が感応して、天から花が降ったとされる。またこの年、太子は法華経も説かれた。

 「日本書紀」にはこう書かれている。

秋七月に、天皇、皇太子を請(ま)せて、勝鬘経を講(と)かしめたまふ。三日に説き竟(お)へつ。

是年、皇太子、亦法華経岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施(おく)りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。

  ここに言う斑鳩寺は、奈良の法隆寺のことである。法隆寺を経営するためには、僧侶や寺の使用人が食べる食糧が必要である。食糧生産には土地がいる。推古天皇は、法隆寺経営のために、播磨の土地を太子に送ったのである。

 この法隆寺の荘園(私有地)を、鵤(いかるが)荘と呼んだ。太子は、鵤荘に一つの伽藍を建てた。これが今の太子町の斑鳩寺の始まりである。

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斑鳩寺と牓示石の位置

 鵤荘の四囲には、境界を示すための石が置かれた。これが牓示石(ぼうじいし)である。実はこの牓示石、今も現存する。上の地図で赤丸で囲んだ場所にある牓示石が、兵庫県の史跡に指定されている。これ以外にも、牓示石とされる石は散在するが、史跡には指定されていない。

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矢田部牓示石

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太田牓示石

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平方牓示石

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福田牓示石

 これらの牓示石は、後世になって、「太子の投げ石」と呼ばれるようになった。上の地図の右下の緑の部分は、壇特山という山だが、太子が壇特山頂からこれらの石を投げたという伝説が残っている。

 こうして、牓示石で境界を示し、その中の土地を耕して生産された食糧のおかげで、法隆寺は維持された。

 日本の歴史は、土地の争奪の歴史である。武士の世になって、鵤荘の土地は、武士に侵食されそうになる。その都度法隆寺が訴訟を起こし、土地を守り通した。

 天文10年(1541年)、赤松氏と山名氏がこの地で争い、戦火によって斑鳩寺は全焼する。こうして法隆寺の所領としての鵤荘は終焉を迎えた。

 その後斑鳩寺は少しづつ再建され、秀吉の世になって、秀吉から300石が寄進された。徳川時代には鵤の地は御朱印地となり、幕府から所領を安堵される。

 武士の世になって、各地の貴族や寺院の荘園が武士に押領されるようになっても、鵤荘は1000年近く土地を守ることが出来た。これひとえに人々の聖徳太子に対する畏敬の思いがそうさせたのだろう。

 さて、太子町の歴史資料を保存公開する施設が、太子町立歴史資料館である。

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太子町立歴史資料館

 この建物、法隆寺の夢殿を模して八角形となっている。

 歴史資料館には、中世の播磨のことを記録した貴重な書物「峰相記(みねあいき)」が所蔵されている。「峰相記」は、正平三年(1348年)に峰相山鶏足寺に詣でた僧と同寺の老僧が交わした問答を記載した書物で、書写山圓教寺や伊和神社、魚吹八幡神社、松原神社などの播磨の社寺の由来や、当時の話題の人物や事件のことなどが語られており、中世播磨のことを知るには必須の文献である。

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「峰相記」のコピー

 「峰相記」は、元々斑鳩寺が所蔵していた。原本は国指定重要文化財である。歴史資料館では、写真版のコピーが展示されていた。

 「峰相記」には、鎌倉時代末期から横行した「悪党」のことが書かれている。当時寺社や貴族の荘園が日本各地にあったが、荘園領主(荘園のオーナー、鵤荘ならば、法隆寺がオーナーだ)から見て、荘園の土地を奪い取ろうとした人々が悪党と呼ばれた。悪党と言っても、中には地頭や御家人などの武士もいた。播磨は特に悪党が横行した土地であった。
 悪党が横行した土地にありながら、鵤荘は、太子信仰の力で戦国の世まで土地を守ることができた。

 現在は、牓示石に囲まれた土地には、民家が立ち並んでいる。ここがかつて法隆寺の所領であったことを示すものは、まさに牓示石しかない。

 しかし、民衆が自分の土地を得て、豊かに生活できる時代を、太子は望んでいたのではなかったかと思う。