兵庫県揖保郡太子町にある斑鳩寺は、天文十年(1541年)の戦火により、堂宇ことごとく焼失した。
龍野赤松氏の赤松政秀の志願により、まず再建されたのが、国指定重要文化財の三重塔である。永禄八年(1565年)の建築である。
三重塔は、朱色がいい感じに色あせた、古びた美しい塔である。
1階の軒下には、月を取ろうと手を伸ばす猿の彫刻がある。
1565年という戦国乱世真っ盛りの時代に、こんなユーモラスな彫刻を施した人は、どんな人だったのだろう。
斑鳩寺は、かつては法隆寺の支院だったが、昌仙法師による再建後は、天台宗の寺院となる。
斑鳩寺の主要な建物は、三重塔の他は、明和六年(1765年)建築の講堂と、寛文五年(1665年)建築の聖徳殿である。
講堂には、釈迦如来、薬師如来、如意輪観世音菩薩の坐像がある。この三像は秘仏であるが、毎年2月22日と23日の春会式で公開される。私が拝観した日は、見ることが出来なかった。
聖徳殿は、大正3年に中殿、奥殿が増築された。奥殿は、国登録有形文化財である。
講堂から聖徳殿までは、渡り廊下が架けられている。
奥殿には、大正五年に、ご本尊、植髪の太子像が安置された。植髪の太子像は、聖徳太子の髪が植えられたとされる像である。
斑鳩寺では、有料で宝物館と聖徳殿内部を拝観することができる。500円で共通券を買うことができる。
拝観を申し込み、案内の方について、宝物館に入る。
このブログで本当に写真で見せたかったのは、宝物館に展示された仏像や仏画である。これが素晴らしかった。撮影禁止と言われたので、写真撮影を控えたが、仏像は、いずれも慶派仏師の作と思われる迫力あるものであった。
木像十二神将立像は、生き生きとした迫力に満ちていた。日光・月光菩薩像は、優美な流れるような彫刻であった。いずれも鎌倉時代の作で国指定重要文化財である。
聖徳太子勝鬘経講賛図は、修復されたのか分からないが、パンフレットに載っている写真と比べてみても、色彩が非常に鮮やかである。太子が山背大兄王子、高麗法師慧慈、百済博士学架、蘇我馬子、小野妹子に対して勝鬘経を講じている場面が描かれている。これも鎌倉時代の作で国重文。
鎌倉時代の宝物が残っているということは、1541年の戦火で堂宇が焼失した時には、これらの宝物は避難させていたのだろう。
宝物館で目を引くのは、日本最古の地球儀とされるソフトボール大の球である。大陸や島と思われる突起が表面上にある。これが地球儀なのかどうか分からないが、由来は謎であるらしい。
宝物館を見終わると、聖徳殿に入る。
八角形の奥殿の中央に、植髪の太子が祀られている。この植髪の太子は、私が見た限り、ネット上にも写真が出ていないので、現地に行かなければ見ることができない。16歳の時の太子の像であるとされる。
伝説では、聖徳太子が御自分の顔を鏡に映して、それを見ながらこの像を彫り、御自分の髪を植えたとされている。
また、植髪の太子が着ている御衣は、往古より親王家から御寄進されてきたものである。今植髪の太子が着ている御衣は、昭和37年の高松宮宣仁親王殿下の御寄進により、お召し替えとなったものである。
写真で見せられないが、是非拝観した方がいいですよと勧めたくなる。
太子は、日本への仏教導入に尽力した人である。日本の文化史上に果たした役割は大きい。そういう意味で、太子は日本人の恩人である。
仏教には四恩という考え方がある。人間が父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝(仏、法、僧)の恩を受けて生きているという考え方である。
我々が生きていられるのは、世間で一生懸命働いている人たちのおかげであるということは、思想というより単なる事実である。当たり前のことなのだが、普段忘れてしまいがちなことである。世界中の人が働かなくなったら、誰も生きていられない。自分が食べる食事が目の前まで運ばれるのに、どれだけの労力がかかっていることだろう。
私がスイフトスポーツを維持して運転できるのも、「俺が金を出して買ったからだ」ではなく、膨大な人々の作業に支えられているからである。
そういう忘れがちな当たり前の事実を時たま思い出させてくれる仏教の考えを、日本に導きいれた太子の決意のほどが偲ばれる。