大光寺霊廟 緒方洪庵生誕地

 足守の町の西にある山中に、足守藩主木下家の菩提寺である臨済宗の寺院、大光寺がある。

 第3代藩主木下利当(としまさ)が建てたと伝えられている。

大光寺

 山門を潜ると、寺まで参道が真っ直ぐに続いている。

山門

 山門は城郭の門のように立派である。

 参道はゆるやかな石段で、歩くとすぐに目的地に到達した。

参道

 石段を登り切って驚いた。大光寺は荒れ果てていて、明らかに無人の廃寺であった。

大光寺

 大光寺には、秀吉、北政所、歴代藩主の位牌を安置した霊廟があるが、境内に入ることは出来なかった。

 境内の中は、見るからに雑木や雑草だらけである。

霊廟

 霊廟は、岡山県下でも珍しい霊廟建築の遺構として、岡山県指定文化財になっている。

 大光寺の土塀や本堂は崩れかかっているが、岡山県指定文化財になっている霊廟だけは修復されているのか、屋根も崩れていない。

本堂

 本堂は、唐破風の玄関の付いた立派な建物だったようだが、屋根瓦が崩れ始めている。

崩れた寺の建物

 それにしても、足守藩の歴史を知った後に、歴代藩主の位牌が祀られた寺が廃寺になって朽ちているのを見るのは、寂しいものである。

 さて、足守川の左岸には、足守が生んだ幕末の名医緒方洪庵の生誕地がある。

 ここは、岡山県指定史跡になっている。

緒方洪庵生誕地

 洪庵は、文化七年(1810年)に足守藩士の家に三男として生まれた。

 足守藩大坂蔵屋敷留守居役となった父について大坂に行った洪庵は、15歳で大坂の医師中天游の私塾に入塾し、蘭学や医学を学んだ。

 ここで圧倒的な学力を見せた洪庵は、21歳で江戸に出て蘭学者坪井信道、宇田川玄真に学び、26歳の時に長崎に遊学してオランダ人医師ニーマンに学んだ。

緒方洪庵生誕地

 洪庵は、大坂に戻って天保九年(1838年)に医院と蘭学適塾を開いた。

 適塾には、福沢諭吉大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介といった後の日本をリードした俊秀が集い、学んでいった。

 洪庵は、大坂でオランダ人から学んだ天然痘の種痘術(ワクチン接種)を始めた。

緒方洪庵

 当時の日本では、天然痘にかかると5割の人が死んだと言われている。

 洪庵は、牛痘と言って、牛の持つ天然痘のウイルスを人体に接種し、天然痘を予防した。

 嘉永三年(1850年)には、旧主である足守藩第12代藩主木下利恭の招きに応じて足守に戻り、足守除痘館を開き、約5,000人に種痘したという。

緒方洪庵銅像

 当時の日本では、子供に牛痘を接種すると牛になるなどといった迷信が信じられていた。

 洪庵は、そんな世相の中、着実に種痘の実績を重ねた。文久二年(1862年)には、幕府に功績が認められ、幕府奥医師兼西洋医学所頭取に任命された。

 だがその翌年の文久三年(1863年)に、洪庵は54歳で病没した。

 緒方洪庵生誕地には、洪庵を顕彰する石碑が建っているが、この石碑の下には洪庵の臍の緒と元服時の遺髪が埋められているという。

緒方洪庵顕彰碑

 緒方洪庵には、「扶氏経験遺訓」や日本最初の病理学の書「病学通論」といった翻訳、著述が多数ある。洪庵が果たした日本近代医学への貢献は計り知れない。洪庵は、日本近代医学の祖と言われている。

 天然痘ウイルスは、昭和55年には自然界から絶滅した。日本では、昭和51年以降、天然痘の種痘は行われていない。

 私の肩には、種痘の跡が残っている。私の世代が、種痘をされた最後の世代だろう。

 もちろん種痘は洪庵だけが行ったわけではない。日本中で蘭医たちが種痘を行った。

 人々の命を救うため、迷信と戦いながら、近代的な医学の確立に奔走した幕末から明治にかけての日本の医師たちには、本当に頭が下がる思いだ。