勝山武家屋敷館の見学を終え、勝山の町の北側にある曹洞宗の寺院、玉雲山化生(かせい)寺を訪れた。
この寺は、人に災いをなした殺生石を封じ込めた寺として知られている。
この寺の縁起は、壮大である。
中国で九千年生きながらえた白面金毛九尾の妖狐が、天平勝宝五年(753年)に、唐から日本に帰朝する吉備真備の遣唐使船に乗って、我が国に密航した。
妖狐はその後約400年日本に潜伏した。
妖狐は、平安時代末期、鳥羽上皇の寵姫玉藻前に化けて、寵愛を一身に集める。
上皇の子の近衛天皇が重い病に伏すと、天皇の母の美福門院は天文博士安倍泰成に命じて祈祷させた。
安倍泰成が祈祷すると、妖狐は正体を現して宮中を抜け出し、下野国那須野ヶ原に逃れ、そこでも悪事を働いた。
三浦介義明、上総介広常らを将とする討伐軍により、妖狐は退治された。
ところが討たれた妖狐は、殺生石に化けて毒気を放ち、近づく人に災いをなした。
那須野ヶ原を通りかかった玄翁和尚が殺生石を杖で打つと、石は3つに割れて、越後高田、豊後高田、美作高田の3つの高田に飛散した。
美作の高田は、勝山の旧称である。
殺生石は、3つに分かれた後も妖気を放っていたため、美作国高田庄の地頭三浦貞宗は、玄翁和尚を招いて殺生石の妖気を封じ込めさせた。
明徳元年(1392年)に、玄翁和尚が殺生石を封じ込めた地に開基されたのが、化生寺である。
境内には、その殺生石が石垣で囲まれ、祀られている。
殺生石の前には、白面金毛九尾の妖狐の木彫りの像がある。なかなか不気味な像だ。
玉藻前と妖狐の話は、室町時代になって御伽草子の一つ「玉藻の草子」に登場し、江戸時代になって浄瑠璃などのテーマになって大流行した。
玉藻前は実在の人物ではないが、鳥羽上皇に寵愛された美福門院がそのモデルであると言われている。
美福門院は、鳥羽上皇の側室であったが、正室の待賢門院を追放し、実子の近衛天皇のライバルであった崇徳天皇を退位に追い込んだ。
その後、復権を目論んだ崇徳上皇が保元の乱に敗北して讃岐に流されたのは有名な話である。
保元の乱後、美福門院は養子の二条天皇を即位させたが、そのことが原因で平治の乱が起こった。
美福門院の政治的策謀が、日本に武士の時代を招来するきっかけになったとも言えるのではないか。
この美福門院の策謀の話が民間に漏れて説話化され、玉藻前の話になったのではないだろうか。
国の指導者が女性に惑わされて、国を傾けるという話は、東洋ではよく取り上げられるテーマである。
本堂の裏手には、大師堂がある。
弘法大師は、曹洞宗と浄土宗の寺院でも祀られていることがある。宗派を超えた日本仏教界のスターのようだ。
大師堂の奥にもお堂がある。
このお堂には、どうやら観音菩薩が祀ってあるようだ。
化生寺の本尊は、十一面観音菩薩である。
ところで、那須野ヶ原にある殺生石は、平成26年に国指定史跡になった。
2年前に、この殺生石が真っ二つに割れたというニュースが流れた。
丁度ロシア軍がウクライナに侵攻し始めた直後だった。
調伏された九尾の妖狐が再び世に現れないことを祈るばかりだ。