本殿(霊光殿)の東側には、宝光閣という建物がある。
和風建築だが、建物の下を煉瓦アーチ橋が支えていて、その下を道路が通っている。
和風建築と煉瓦の組み合わせは、いかにも明治らしい。
大客殿から宝光閣、本殿の間は、木造の渡り廊下がつないでいる。
宝光閣と渡り廊下は、国登録有形文化財である。
さて、ここまで本尊である最上位経王大菩薩を祀る本殿や、一塔両尊四士を祀る根本大堂などを見てきた。
ここまでは、言わば最上稲荷の表の顔である。本殿の裏側から始まる七十七末社を祀るエリアからが、最上稲荷の本領が発揮されるエリアである。
七十七末社には、最上位経王大菩薩にお仕えして、縁結びや縁切り、厄除けなどの役割を担い、衆生を救済するために活動する七十七の神様が祀られている。
七十七末社に祀られる神様は、それぞれ天王と呼ばれ、最正位という位が付いている。
稲荷神と習合した最上位経王大菩薩にお仕えする神様となると、白狐であろう。
七十七末社は、小祠に祀られているのもあれば、題目石という、「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ石の形で祀られているものもある。こちらは稲荷信仰でお塚と呼ばれるものと同じであろう。
七十七末社の前には、その末社のご威徳が書かれたプレートが備え付けられている。
例えば、七十七末社の第77番の最正位福崎天王のご威徳は、抽籤(くじびき)で、勝負事を司っている。
龍王山側に行くと、題目石の形で祀られた末社がずらりと並んでいる。
それぞれの末社のご威徳にあやかろうと、数多くの参拝客が末社に線香を上げて祈りを捧げている。
確かに、個々に分かり易くご威徳が定めてあると、お参りする方もお参りしやすい。
言葉は悪いかもしれないが、さながら願い事のATMだ。自分の願い事を叶えてくれる末社を何度も訪ねる参拝客も多いだろう。
私は、一つ一つの末社のご威徳を見ながら通り過ぎた。
上の写真の題目石には、雪法(きよのり)天王、光仲(みつなか)天王、人走(ひとはせ)天王の3つの末社が祀られている。
雪法天王のご威徳は美麗で、美人成就の願いを叶え、光仲天王のご威徳は仲裁(なかなおり)で、仲裁成就の願いを叶え、人走天王のご威徳は逃走(はしりびと)で、尋ね人を見つけてくれるそうだ。
ある人は、疑問に思うかもしれない。最上稲荷は仏教寺院である。本尊最上位経王大菩薩の本体である「法華経」は、この世界に存在すると思われるものは、全て実体がないという一切皆空の教えを説いている。
衆生の欲望や願い事は、いかにもこの一切皆空に反している。それなのに、なぜ最上稲荷は、人々の願い事を叶えようとするのだろう。
「法華経」には、方便という言葉が何度も出てくる。巧妙な手段という意味で用いられる。
人々の能力には個人差がある。覚りの世界にすぐに入ることが出来る人もいれば、そうでない人もいる。仏は、人々の個々の特性に合わせて、様々な方便を用いて教えを説き、最終的に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という最上の覚りの世界に導く。
「法華経」第三品の「譬喩品」には、仏の方便の用い方を譬喩を用いて説いている。
ある豪邸が火災になった時に、火に気が付かずに邸の中で遊び戯れる子供達を外に逃がすために、豪邸の長者が、子供達に門の外に並べた牛車、鹿車、羊車という乗り物の玩具を示しておびき出す。
子供達は喜んで外に出る。長者は、外に出てきた子供達に対し、最初に示した玩具ではなく、邸宅内からは見えなくらい大きな最高の乗り物を見せる。子供たちは歓喜してその乗り物に乗る。
火災に遭った豪邸(火宅)は、我々の人生の譬えである。いつか終わる人生の中で遊び戯れていても、最後は焼け死んでしまう。
仏は、火宅から人々を救い出すために、分かり易い教えで人々を誘い出す。そして最後に最高の教えを説いて、人々を覚りの世界に導くのである。
最上稲荷の末社が叶える人々の願いも、譬喩品で説く玩具のようなものであろう。
最上稲荷の境内は、「法華経」の世界を具現化していると言っていい。私が七十七末社を最上稲荷の本領と言ったのは、そのためである。
ここには、縁結びをご威徳とする縁引天王と、離縁をご威徳とする離別天王を並べて祀ってある。
良縁を得たい人は、先ず離別天王にお参りして悪縁を絶ち、次に縁引天王にお参りして良縁を結ぶのがよいという。
縁引天王の参拝者は、縁結絵馬に願い事を書いて、良縁撫で石の前で願い事を念じ、良縁撫で石を反時計回りで一周して、左手で石を撫でる。
離別天王の参拝者は、縁切札に願い事を書いて、縁切撫で石の前で願い事を念じて縁切札を2つに引き裂き、縁切撫で石を時計回りに一周して、右手で縁切撫で石を撫でる。
そうすれば、それぞれの願いが叶うという。
ちなみに離別天王が離別してくれるのは、人との縁だけでなく、病気や煙草、賭け事癖もあるという。自分の嫌なところと離別したい人も、ここに参ればいいだろう。
縁の末社の隣には、本殿に祀られる三面大黒尊天を勧請した三面大黒堂(金運堂)がある。
三面大黒堂を巡る水盤には、報恩大師の開基以来の歴史を有する厳開明王池から移した霊石を納めていて、この水盤に浸したものを浄化するという。
三面大黒堂に祀られる三面大黒尊天は、正面に大黒天、向かって左に毘沙門天、向かって右に弁財天のお顔を持っている。
三面とも金運成就のご威徳をお持ちであるが、大黒天は商売繁盛、毘沙門天は必勝成就、弁財天は恋愛成就のご威徳をお持ちであるらしい。
三面大黒尊天をお参りすれば、まさにいいことづくめである。
仏陀は、この世が縁起から成り立っていることを覚った。縁起とは、この世界の全てのものが、相互に補完しあった関係性の中にあり、独立して存在するものはないという意味である。
例えば私の体は、私が日々摂っている水と食料から出来ている。私の周りを包む空気と気圧がなければ、体を維持することも出来ない。水と食料と空気がない中で、私の体を維持するのは不可能である。そうとすれば、私の体というものは、この宇宙に独立して存在しているのではないことになる。
縁起の法則からすれば、全てのものは、他のものとの縁の中で仮に和合してあるに過ぎない。縁は時間と共に変化するので、仮に和合してあるものは変化して、一秒たりとも同じ存在ではない。これが諸行無常である。
諸行無常であるが故に、全ての存在に我という実体はない。諸法無我である。諸法無我であることを実感すれば、我執を離れ、涅槃寂静の世界に入る。
この諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を仏法の三法印という。この三法印が、仏教の核心である。
そうとすれば、我々が我(自分)だと思っているものの正体が明らかになる。それは単に自分の生命や仲間達の生命を維持し、子孫を残し、繁栄したいという生物としての本能に他ならない。
ところが、仏教がいくら諸法無我を唱えても、生身の生き物である我々が、生物としての本能を失うことは出来ない。
覚りの世界に安住して、社会維持のために働かないという出家者のような生活を、人類全体がとることは出来ない。
だが、より良く生きたいという願望がある限り、それが叶えられない苦しみは続く。
「法華経」が説いた菩薩道は、この世界が虚妄であると理解しながら、苦しむ人々のために社会に働きかけ続けることである。