伊弉諾神宮は、大同元年(806年)に書かれた「新抄格勅符抄」には、「津名神」と記されている。津名郡の大社として位置づけられていたようだ。
その後成立した「延喜式」には、「伊佐奈伎神社」と記され、名神大社に列せられている。
貞応二年(1223年)の「淡路国太田文」では、一宮として記載されている。
この社は、鎌倉時代には、淡路一宮と認識されていたようだ。
私が参拝した日は、夏祭本祭の日で、拝殿上では巫女が舞を披露していた。
巫女の舞は非常に優雅で、観ていてこの国に生まれて良かったと感じた。
伊弉諾神宮は、弘安三年(1280年)に社殿が再興され、以後は地頭や領主などによって社殿の造営、修復が進んだ。
今本殿が建っている場所は、かつては伊弉諾尊の神陵があった場所とされ、自然石が積み重なっていたそうだ。明治18年に神陵上に本殿が移築された。
本殿は、檜皮葺が美しい流造である。
伊弉諾神宮は、伊弉諾尊が引退後隠れ住んだ幽宮(かくれみや)の跡だという。本殿の敷地を見ようとしたが、なかなか見えず、神陵の痕跡は見つけることは出来なかった。
伊弉諾神宮には、妻神の伊弉冉尊も合祀されているが、伊弉冉尊が合祀されたのは、昭和7年のことであるらしい。
つい最近まで、伊弉諾尊は、やもめ暮らしをしていたようだ。
ちなみに伊弉冉尊は、「古事記」では、出雲と伯耆の間の比婆山に葬られたとある。比婆山伝承地は数多くあり、伊弉冉尊の御陵とされる場所も複数あって、特定されていない。
伊弉諾神宮の例祭は毎年4月22日に行われる。その日には、神輿が檀尻を従えて、淡路市郡家にある摂社濱神社に渡御する。
濱神社は、筑紫(九州)から淡路に戻った伊弉諾尊が上陸した場所とされている。
濱神社は、平成7年の阪神淡路大震災で、本殿が半壊、幣殿拝殿が全壊という壊滅的被害を受けたが、平成13年から伊勢神宮御下賜材を用いて再建された。
拝殿は、神社建築なのに屋根の上に鴟尾が載っている。なかなか見たことがない様式だ。
濱神社のある場所は、例祭の日には、伊弉諾神宮から見れば日の入の方角に当るらしい。
昨日の回で、伊弉諾神宮を中心とした各地の神社の配置図を紹介した。伊弉諾神宮の日の出、日の入の方角に、日本各地の著名な神社が配置されているという。
毎年11月23日に宮中で行われる新嘗祭も、旧冬至と関係のある儀式である。
太陽の霊力を崇拝する神道のことを考えると、神社の配置にも何らかの仕掛けがあってもおかしくはない。