風見鶏の館 中編

 玄関の扉を開けて館の中に入ると、1階中央のホールが出迎えてくれる。

1階ホール

 ホールに入って左側には、トーマス夫人のサロンとして使われていた応接室がある。建物の南東側に当たる。

応接室

 応接室の天井には、アールデコ調の直線と曲線で構成された装飾が施されている。

応接室の天井

 20世紀初頭の建築だが、どことなく未来的なデザインだ。

 応接室の暖炉は、居間の暖炉と背中合わせになっていて、2つの暖炉の排煙が1つの煙突で済むように設計されている。

応接室の暖炉

 応接室の西側には居間がある。家族がくつろいだ空間だろう。

居間

居間の天井

 居間の天井は、木骨を表に見せるハーフティンバーの技法で作られている。とてもシックな空間だ。

 居間の奥には、外に張り出した一間があり、椅子やソファがおいている。家族はここで団欒の時を過ごしたのだろうか。

居間の奥

居間の暖炉

 応接室の暖炉が木で囲まれていたのに対し、居間の暖炉は大理石で囲まれている。この奥の壁の中を煙突が通っているわけだ。

 居間の西側には、広い窓から明るい外光が入る、開放的なテラスがある。

テラス

テラスの床

テラスの天井

 このテラスに、風見鶏の館を建てたトーマス家に関する資料や写真が展示してあった。

 1871年にドイツのライン川沿いの町、コブレンツで生まれたゴットフリート・トーマスは、明治24年(1891年)、20歳の時に来日する。

 横浜に上陸したトーマスは、中国との貿易を始めた。

 明治32年(1899年)、トーマスとクリステル夫人との間に1人娘エルゼが生まれた。

エルゼ4歳のころの写真

 明治35年(1902年)にトーマス一家は神戸に移り住む。明治38年(1905年)には、トーマス一家は現在風見鶏の館が建っている場所に転居した。

 明治42年(1909年)、クリステル夫人は神戸市に風見鶏の館の建築届を出した。

 大正3年(1914年)、エルゼのドイツ寄宿舎への入学のため、トーマス一家はドイツに一時帰国するが、帰国中に第一次世界大戦が勃発した。

 戦争では、日本とドイツは敵国同士になり、トーマス一家は日本に戻れなくなった。風見鶏の館は、日本政府が接収した。

 トーマス一家は、日本に財産を残してきたので、ドイツでの生活は困窮を究めたという。その後、トーマス一家の所在は分からなくなる。

 昭和52年(1977年)10月、日本で連続テレビ小説「風見鶏」が放送された。

 同年12月、神戸市がドラマで脚光を浴びた風見鶏の館を買い取り、一般公開することになった。

 ドイツで78歳になっていたエルゼ・カルボー婦人は、自分が14歳まで住んでいた風見鶏の館がまだ残っていて、一般公開される予定であることをドイツの新聞記事で知った。

 エルゼは、幼少期にこの館で暮らしていたことを、ドイツ海外放送の日本人記者に伝えた。

昭和55年、65年ぶりに風見鶏の館にやってきたエルゼ

 神戸市は、風見鶏の館のかつての居住者がドイツで生存していることを知り、日本にエルゼを招待することにした。

 昭和55年(1980年)、80歳になったエルゼは、実に65年ぶりに風見鶏の館の前に立った。

 上の写真は、館の前に立った時のエルゼを写したものである。驚きと喜びの気持ちが表情に溢れている。

 エルゼは、館で当時使っていた家具を神戸市に寄贈した。今その家具は書斎で展示している。

 昭和58年から60年にかけての風見鶏の館の復元工事では、エルゼが所持していた館の写真や、エルゼの証言が非常に役立ったという。

 その後エルゼは、平成9年に99歳で死去するまで、4回来日した。エルゼは生前、「ドイツは私の祖国で、日本は私の故郷である」と言って、日本に戻りたがったという。

 さて、テラスの北側には、食堂がある。

食堂

食堂の天井

食堂の暖炉

食堂西側の窓

 食堂には、備え付けの家具があるが、その家具の裏側は配膳室になっている。

 地下室で作られた料理がリフトで配膳室に上げられ、上下に開閉する家具のハッチを通して配膳室から食堂に届けられた。

食堂備え付け家具

備え付け家具のハッチ

 この食卓で、エルゼと両親は楽しく過ごしたことだろう。

 1階の北東の部屋は、トーマスの書斎である。

書斎

 書斎の五面のベイウィンドウに囲まれた空間にある、龍の彫刻の付いた椅子とテーブルは、当時館で使っていたものとして、エルゼが寄贈したものである。

 書斎の中央にある柵には、ロートレックを彷彿させるアールヌーボー調の絵画が描かれている。

アールヌーボー調の絵

 いかにも第一次世界大戦前のヨーロッパの流行を取り入れたようで、時代を感じる。

 エルゼにとって、小さいころに両親の溢れんばかりの愛情を受けて育ったこの館は、忘れることのできない家だったのだろう。

 私も、5歳から11歳までを過ごした新潟県岩船郡山北町(現村上市)の古い借家を懐かしく思い出すことがある。両親が木の柱を背にして私を立たせ、私の身長を鉛筆で柱に記していたものだ。

 人に歴史あり、家族に歴史あり、家に歴史がある。誰しも幼少期や思春期を過ごした場所には、特別な思い出があるものである。