中堂の奥、役行者と理源大師聖宝の像の背後に、易塚がある。
儒教の聖典である五経は、「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」であるが、「易経」はその第一の聖典である。
易は、一般には占いの一種のように思われているが、陰陽八卦六十四爻(こう)の組み合わせで、宇宙と人生の森羅万象を予言し説明する象徴主義的な哲学体系である。
一般に儒教は、孔子や孟子に代表される儒者が説いた道徳的な教えばかりだと思われがちだが、その根本聖典に、「易経」のような神秘主義的な宇宙論を持っている。
仁義礼智信も、宇宙を調和させる宇宙的な善と合一するために目指されるものである。
そう考えれば、やはり儒教も宗教の一種である。
易塚の入口には、「易経」の最初に書かれている乾(けん)の卦の説明の「乾 元享利貞」が刻まれた石柱が建っている。
易塚は、福田海の境内の中心にある。実はこの易塚が、福田海の精神的支柱なのかも知れない。
さて、福田海の境内から吉備の中山を登っていくと、山の中腹にある大納言藤原成親卿の墓に至る。
藤原成親墓への道を登り始めると、すぐ左側に、福田海の山主の家と護摩堂がある。
護摩堂の本尊は虚空蔵菩薩で、両脇侍は、弥勒菩薩と役行者であるらしい。
坂を上がると、次は左手に燈明堂がある。
燈明堂の中では、福田海開祖の中山通幽が比叡山から分けてもらった不滅の燈明が燃え続けているそうだ。
燈明堂の前には、鶏の銅像がある。
鼻ぐり塚前に銅像がある牛や豚と並んで、鶏の肉と卵が人間に齎している大恩は計り知れない。
試しに鶏肉と鶏卵のない世界を想像してみるがいい。世界の持つ魅力の何割かは無くなってしまいそうだ。
燈明堂の先には、仏舎利塔がある。
更に先に進むと、岡山県指定史跡の高麗寺仁王門跡地がある。
高麗寺は、かつてこの地に建っていた寺院である。
山門跡の石柱の周囲には、山門の礎石と思われる石が散在している。
大納言藤原成親卿は、源氏が挙兵する前に京にて行われた平家追討の密議、鹿ケ谷の謀議に参加したが、謀議が平家に漏れて捕らわれた。
成親は、治承元年(1177年)に高麗寺有木別所に配流となり、この地で亡くなった。
高麗寺仁王門跡から更に山道を登る。藪蚊に襲われながら登っていく。
墓とされるものは、二段の石垣の上に置かれた小さな供養塔である。
成親の墓は、長い間荒れ果てていたが、明治43年に現在のような姿に整備された。
成親は、この地で配所の月を眺めながら暮らし、そして失意のうちに亡くなった。
岡山出身の江戸時代末期の国学者で歌人の平賀元義は、「あたらこの 成親がごと よき臣を 有木の山の うもれ木にして」と歌い、藤原成親が有木の配所で埋もれたように亡くなったことを惜しんでいる。
私が成親卿の墓の参詣を終えて山を下りると、途中10名くらいの登山客とすれ違った。彼らも成親卿の墓に向かっていた。
明治になって墓所が整備され、今は多数の人が訪れるようになったことを、草葉の陰で成親卿はどう感じていることだろう。