越部の里

 今日も又地味な史跡を取り上げるが、ここは私の琴線に触れる場所なので、記事が長くなるかもしれない。

 今回取り上げるのは、歴史的には越部(こしべ)と呼ばれている地域である。兵庫県たつの市新宮町のうち、JR姫新線播磨新宮駅の南側の農村地帯を指す。

 ここは、古代の官道、美作道が通じていたところで、古くから開けた地域であった。越部には、国家の連絡用の馬を置いた、駅家(うまや)があったとされているが、現在ではどこにあったか分からなくなっている。

 越部は、6世紀、第27代安閑天皇の時代に、天皇の寵妃但馬君小津に与えられ、屯倉(みやけ)となった。屯倉とは、大和朝廷の直轄地のことである。

 たつの市新宮町市野保と呼ばれる集落の中に、約1300年前の奈良時代初頭に建てられた寺院の跡とされる、越部廃寺がある。

 今では、越部廃寺の上には、薬師堂が建っているが、薬師堂の下の土壇と礎石の一部

は、越部廃寺を支えたものとされている。

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越部廃寺の上に建つ薬師堂

 この土壇は、昔から瓦がよく出土する場所として知られていた。発掘された越部廃寺の瓦は、たつの市埋蔵文化財センターに展示してある。

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越部廃寺から出土した瓦

 さて、平安時代になると、越部の里は、藤原氏の荘園となる。藤原氏と言っても、藤原不比等からどんどん枝分かれしていったが、越部の領主となった藤原氏は、現代の冷泉家につながる、歌人として名高い藤原俊成(としなり、又はしゅんぜい)とその息子・藤原定家(さだいえ、又はていか)が出た家であった。

 領主と言っても、住まいは京都にあり、越部などの荘園から上がる収穫で生活をしていたのである。

 市野保の集落の外れにある葡萄畑の中に、越部禅尼の墓とされる史跡がある。地元では、なぜかこの史跡は「てんかさん」と呼ばれている。越部禅尼の伯父であった、定家(ていか)さんがなまったのだろうか。

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鬱蒼とした木立の中に、越部禅尼の墓がある。

 越部禅尼とは、藤原俊成の養女となった俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)が出家して、晩年に越部に隠棲した時の名前である。

 俊成は、永久二年(1114年)から元久元年(1204年)までの91年間を生きた歌人である。勅撰和歌集天皇が編纂を命じた和歌集)である「千載和歌集」の撰者として知られる。

 俊成門下からは、息子の定家を始め、後鳥羽院後鳥羽上皇)、藤原家隆、式氏内親王など、「新古今和歌集」を彩る、錚錚たる歌人たちが輩出された。

 俊成は、歌論もよくしたが、歌を批評するのに「幽玄」という言葉を多用した。今や能楽や茶道の理念となっている幽玄は、俊成が用い始めた概念である。

 俊成の息子定家は、「小倉百人一首」の撰者である。百人一首に選ばれた歌がいいか悪いかは別にして、日本文化は「百人一首」を抜きにしては語れない。そういう意味で、定家は日本文化の創造者の一人である。

 定家は、応保二年(1162年)から仁治二年(1241年)までの79年の間を生きた歌人である。唯美主義的、夢幻的な作風で知られる。それまでの歌人は、現実の風景を見て感じた感懐を詠んだりしていたが、定家は、自分の頭の中に浮かんだ夢幻のような世界を純粋に言葉だけで構築していった歌人である。

 45歳で死んだ三島由紀夫は、「僕は50歳になったら定家を書きます」と生前言っていた。三島由紀夫も、現実と別次元の言葉の美の世界を追求した作家である。三島は密かに自らを「現代の定家」になぞらえていたことだろう。

 私は、どうしても平安末期、鎌倉初期の俊成ー定家というラインと、昭和時代の川端康成三島由紀夫というラインを重ね合わせてしまう。両ユニットとも、言葉だけで現実と異なる秩序をこの世に構築できることに気づいた文学者である。

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越部禅尼の墓、別名「てんかさん」

 私は何を書いているのだろう。そう、越部禅尼(俊成卿女)についてであった。

 俊成卿女は、俊成の長女である八条院三条の娘である。つまり俊成の孫で、定家の姪である。生没年は、承安元年(1171年)から建長三年(1251年)以後とされる。80歳以上生きた人である。この家系、当時としては驚くほど長寿の家系だ。

 俊成卿女の父は、藤原盛頼という。盛頼は、安元三年(1177年)に発生した平家打倒のための謀議、鹿ケ谷の陰謀に、兄成経が参加していたことで連座して失脚した。

 父の失脚のため、まだ幼少の俊成卿女は、祖父俊成の養子となり、以後俊成卿女または藤原俊成女(ふじわらのとしなりのむすめ)と呼ばれた。

 俊成卿女は、19歳のころに源通具の妻となるが、通具が他の女性を新妻に迎えたことがきっかけで離別してからは、歌の世界に生きがいを見出し、後鳥羽院歌壇で活躍する。

 養父俊成の薫陶を受けた俊成卿女は、歌人として大成した。「新古今和歌集」にも彼女の歌が28首選ばれている。

 彼女は、「源氏物語」や「狭衣物語」などの物語類を愛し、それらの物語の本歌取りとなる歌を多く作った。本歌取りとは、典拠となる古歌の一部を取って新たな歌を作る技法である。

 有名な歌は、「新古今和歌集」恋歌二、1081番の、

下燃えに 思ひ消えなむ 煙だに 跡なき雲の はてぞかなしき 

 である。

 「下燃え」は、表に出さずに心の中で燃える恋心のことを言う。思ひの「ひ」に「火」がかけてある。表に出せない恋心をかかえて消えてしまうだろう(死んでしまうだろう)。死ぬと荼毘に付されるが、荼毘に付された時の煙でさえ、跡かたなく消えてしまう。そんな恋心の果てが悲しい、という歌意である。

 これは、「狭衣物語」の中の歌の本歌取りである。俊成卿女は、歌を作る前には、何度も物語類を読み返し、そのあと暗い部屋に蝋燭の火だけを灯して、じっと考えて作歌をしたと伝えられている。

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俊成卿女の歌碑

 越部禅尼の墓の前には歌碑があった。

橘の にほふあたりの うたた寝は 夢もむかしの 袖の香ぞする

 これは、「新古今和歌集」夏歌、245番の歌である。

 橘の匂うあたりでうたた寝をすると、夢の中でも昔添い寝した男の袖の香がする、という歌意である。昔一緒に寝た男が、袖に橘の香りを燻らせていたのだろう。彼女の歌は、何だか果敢なく悲しい。

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越部禅尼の祠

 俊成卿女は、仁治二年(1241年)、70歳の時に、伯父の定家が亡くなってからは、領地である越部庄に草庵を建て、隠棲生活を過ごした。そして、越部禅尼と呼ばれた。建長三年(1251年)、80歳の時に「越部禅尼消息」と呼ばれる、歴代勅撰和歌集を論評する手紙を京に寄せたので、この時まで健在だったことが認められている。そして、建長六年、83歳の時に越部で亡くなったとされている。

 ところで、日本最古の文芸評論書とも言われる「無名草子(むみょうぞうし)」という書物がある。

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俊成卿女の著とされる「無名草子」

 「無名草子」の著者は、30歳のころの俊成卿女と言われている。内容は、出家した83歳の老女が、たまたま散歩中に立ち寄った寺院の中で知り合った数名の女性たちと、「源氏物語」「狭衣物語」「夜の寝覚」といった物語などを論じるというものだ。散文の文学作品を評した書物としては、日本で最も古い著作である。

 「無名草子」の中には、当時は読まれていたが現代には伝わっていない物語類(散佚物語という)のことも出てくる。その点でも「無名草子」は貴重な書物だ。

 今となっては古典となっている「源氏物語」も、当時は現代で言えば少女漫画のような扱いで、まともな成人男子が読むべきものとされていなかった。そんな時代の中で、日本で初めて物語類の論評をした俊成卿女は、よほどこれらの物語類を心の支えとしていたのだろう。

 「無名草子」の最初の方の、

歳月の積りに添へて、いよいよ昔は忘れがたく、古りにし人は恋しきままに、人知れぬ忍び音のみ泣かれて、苔の袂も乾く世なき(僧衣の袂もずっと涙に濡れて乾く時がない)慰めには、花籠を臂に掛けて、朝ごとに露を払ひつつ、野辺の叢にまじりて花を摘みつつ、仏に奉るわざをのみして、あまた年経ぬれば(後略) 

という文章は、30歳の俊成卿女が、83歳の年を越部で過ごす自分の姿を予言しているかのような文だ。

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祠の中の花崗岩の仏像

 越部禅尼の墓とされる祠は、おそらく晩年の俊成卿女が暮らした草庵の跡に建てられたものだろう。京にも俊成卿女のものと伝えられる墓がある。越部で俊成卿女が亡くなった後、遺骨は生まれ故郷の京に運ばれ葬られたと考えた方が自然だ。

 この祠は、藤原氏の荘園である越部庄の現地管理者が、俊成卿女(越部禅尼)を偲んで建てたものではないかと思う。

 祠の中の花崗岩の仏像は、鎌倉時代後期のものとされている。俊成卿女が亡くなってしばらく経ってから造られたものだ。

 私が今回こんなに詳しく記事を書いたのは、俊成卿女という、和歌の歴史の中でも第一級の歌人のゆかりの地が、こんな身近にあることに対する歓びと、葡萄畑の中の木立の下に建つ慎ましい祠が、いかにも俊成卿女に相応しい静かな佇まいを見せていることへの感銘からである。

 花崗岩の仏像も、よく見ると物語が好きだった俊成卿女が微笑んでいるように見えてくる。

 越部禅尼の墓は、車で入ることが出来ないような細い道を登らなければたどり着けない。ここがいつまでも今と同じ静けさの中に残されることを望む。