処女塚古墳 東求女塚古墳

 6月25日に神戸市東灘区から芦屋市にかけての史跡巡りを行った。

 最初に訪れたのは、神戸市東灘区御影塚町2丁目にある処女塚(おとめづか)古墳である。

処女塚古墳(左側が後円部)

 今年3月20日の西求女塚(にしもとめづか)古墳の記事で紹介したように、処女塚古墳と西求女塚古墳と東求女塚古墳は、「万葉集」に歌われた菟原処女(うないおとめ)の伝説と関連付けられている。

 はるか昔、この地に住んでいた菟原処女を巡って、同郷の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国の血沼壮士(ちぬおとこ)又の名信太壮士(しのだおとこ)が競争をした。 

 それを憂い悲しんだ菟原処女が自死し、その死を知った菟原壮士と血沼壮士も後を追って自死した。

処女塚古墳西側の入口

 古えから、処女塚古墳は菟原処女の、西求女塚古墳は菟原壮士の、東求女塚古墳は血沼壮士の墳墓だと伝えられてきた。

 処女塚古墳は、西求女塚古墳と東求塚古墳との丁度中間に位置し、西求女塚古墳の前方部は東に、東求塚古墳の前方部は西に向いており、それぞれの壮士が菟原処女に求愛し続けているかのような配置になっている。

前方部から後円部を望む

 処女塚古墳は、3世紀後半という比較的古い年代に築かれた前方後円墳である。

 大正11年に国指定史跡となったが、その時には既に墳丘の一部が道路工事で削られていた。

 昭和54年から昭和59年にかけて、墳丘の整備と発掘調査が行われた。

 その結果、後円部を北側に向けた全長70メートルの前方後円墳で、後円部は直径39メートル、高さ17メートル、前方部は幅32メートル、高さ14メートルという大きさであることが分かった。

後円部

後円部の上

 後円部は3段に、前方部は2段に築盛され、葺石が葺かれていたという。

 処女塚古墳は、現在は公園になっており、石段を登れば古墳の上に出る。

 私が訪れた時も、清掃の方が後円部と前方部の上の土を綺麗に整地していた。

後円部の斜面

後円部から前方部を望む

 古墳の東側には、2つの石碑が建っている。

田辺福麻呂の歌碑と小山田高家の顕彰碑

 向かって左側は、万葉歌人田辺福麻呂(さきまろ)の、「古(いにしえ)の 小竹田壮士(しのだおとこ)の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城(おくつき)ぞこれ」という歌を刻んだ歌碑である。

田辺福麻呂の歌碑

 向かって右のもう一基は、南北朝時代の武将小山田太郎高家の顕彰碑である。

 建武三年(1336年)の湊川の合戦で敗れた新田義貞は、処女塚古墳まで退却してきたが、追手の矢により義貞の馬は倒れ、義貞は処女塚古墳に登って敵を防いだ。

 その義貞の窮状を認めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義に報いるため、馬を義貞に与えて東に逃がし、追手を相手に戦ったが、ついに塚上で敵に討たれた。

山田太郎高家の顕彰碑

 弘化三年(1846年)、この地を治める代官竹垣三左衛門藤原直道が、「太平記」に記された小山田太郎高家のこの武勇を顕彰するため、石碑を建立したという。

 砂岩製のためか。表面が一部剥落している。

 処女塚古墳からは、壺型土器が出土した。山陰地方の特徴を備えた土器だったそうだ。土器の特徴から、3世紀後半の古墳と判明したという。

前方部

処女塚古墳全景(南西側から北東側に向け撮影)

 処女塚古墳は、五色塚古墳と並んで、神戸の市街地の真ん中に横たわる前方後円墳である。
 ここから東に行き、神戸市東灘区住吉宮町1丁目にある東求女塚古墳に赴いた。

 東求女塚古墳は、墳丘がほとんど削り取られ、今は墳丘の一部が公園の中に残っているだけである。

東求女塚古墳

 昭和57年に発掘調査が行われた。その結果、前方部の裾と周濠、後円部の裾が発見され、前方部を北西に向けた全長80メートルの前方後円墳だったことが判明した。

 東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡、車輪石、剣、玉などである。

東求女塚古墳の墳丘上の石碑

墳丘上の石碑

 出土品から、東求女塚古墳の築造年代は4世紀後半と見られている。処女塚古墳の約1世紀後に築造されたことになるので、3基の古墳が伝説の菟原処女たちの古墳であるというのは、考古学的資料からは否定される。

 「万葉集」の時代より前に、この3基の古墳の配置を見た人が、菟原処女の伝説を思いついたのか、それとも3名は実在の人物だったのか、今となっては分からない。

 だが、今も雑然とした市街地の中に残るこの3基の古墳が、古い伝説を静かに語り続けているように私には感じられる。