城崎麦わら細工伝承館

 城崎文芸館から薬師公園に向かって西に歩くと、城崎の伝統工芸品である城崎麦わら細工の古い作品を収集展示し、技術の伝承発展の拠点となっている城崎麦わら細工伝承館がある。

城崎麦わら細工伝承館

 ここでは、麦わら細工の制作体験をすることが出来る。

 麦わら細工は、染色した麦わらを用いて作る工芸品のことである。

麦わらと染色し、展開した麦わら

染色材料と、染色時に使うしゃもじ

 まず、節がつかないように麦わらを切り取り、湯煮、漂白、染色、乾燥の工程を経て色がついた麦わらを、割り竹で割り、すり台の上ですり竹を用いて展開し、テープ状にする。

展開時に使う道具類

 麦わら細工の作品には、大きく分けて模様物(箱物)、模様物(色紙等)、小筋物、編物の4種類があるが、それぞれの用途に応じて、展開した麦わらを切り、糊で張り付けるなどして作品を作っていく。

 鉄筆で直接麦わらに模様を描いて切断したり、模様を描いた和紙に合わせて麦わらを切ったりする。

麦わら細工制作道具

 制作には非常に高度な技術が必要だと思われるが、実際に作ったことがない私には想像がつかない。

現代の麦わら細工

 昨日の城崎文芸館の記事でも書いたが、城崎麦わら細工は、享保年間(1716~1736年)に因幡から城崎に湯治に来ていた半七という人物が始めたものである。

 当時城崎は湯島と呼ばれていて、湯島細工と言われた。

 半七は、旅宿「林家」に泊まって湯治する間、つれづれに任せて染色した麦わらを竹笛に巻き付けて細工物を作り、売り出した。

江戸時代~明治時代の麦わら細工

 半七は、林家の入り婿になり、その後技術を磨いて諸国修行の旅をしたらしい。

 麦わら細工で有名なのは、城崎のほかに東京都大田区の大森細工があるが、大森細工発祥の伝説として、湯島(城崎)から来た農民が、大森宿に泊まった際に、制作した麦わら細工を地元の人に披露して評判となり、技術を伝えたという話がある。

現代の麦わら細工作品

 大森細工の発祥は、宝暦年間(1751~1764年)で湯島細工より後なので、半七が始めた湯島(城崎)麦わら細工が大森に伝わったのであろう。

 半七は、享保十六年(1731年)に亡くなったらしい。

 大正14年に発生した北但大震災により、麦わら細工に関する記録文書が焼失してしまったので、詳細は分からなくなってしまった。

蛤型菓子器

 宝暦十三年(1763年)に発刊された「但州湯島道中独案内」には、湯島みやげ「麦わら細工」の記載があり、既に地域の特産として確立していたようだ。

 文化六年(1823年)から文化十一年(1828年)までと、安政六年(1859年)から文久二年(1862年)までの2回、来日したドイツ人医師シーボルトは、日本で収集した美術工芸品をヨーロッパに持ち帰った。

 湯島の麦わら細工もコレクションの中にあった。

現代の職人が復元したシーボルトコレクションの文箱

 シーボルトが持ち帰ったコレクションは、シーボルトコレクションと呼ばれ、ドイツのミュンヘン国立民族学博物館やオランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている。

 平成16年10月に、城崎麦わら細工の職人が、両博物館を訪問し、シーボルトコレクション中の約120点の麦わら細工を検証し、帰国後現代の技術で復元した。

桐箱

 明治に入って麦わら細工は更に発展し、世界各国の万国博覧会に出品され、好評を博した。

 明治40年代が、城崎麦わら細工の最盛期であった。明治天皇も作品をお買い上げになった。 

 大正14年の北但大震災で、古い麦わら細工や記録文書は失われたが、現代も新たな職人たちが脈々と技術を伝承している。

 植物から作られたこの見事な工芸品が、今後も継承されていくことを願っている。