旧朝倉家住宅の見学が終わると、丹波市青垣町西芦田にある道の駅あおがきに行った。
ここに着くと、少し青空が見えて、雨が上がる気配がした。
道の駅あおがきには、丹波布伝承館という無料で見学できる資料館が併設されている。
ここでは実際に丹波布が制作されており、見学だけでなく制作体験をすることも出来る。
丹波布は、手で紡いだ木綿の糸を、栗の皮や、ヤマモモ、ハンノキといった自然の草木を用いて染色し、それを手織りで編んで作った布である。
緯糸(よこいと)の中に、出荷出来ずに残った屑繭からつまみ出した、つまみ糸と呼ぶ絹糸を織り込んでいるのが特徴である。
文政年間(1818~1830年)から今の青垣町佐治の特産物として織られるようになり、京などで佐治木綿という名で流通した。
作業工程は、まず畑から収穫された和綿を、手作業で綿と種に分ける綿繰りから始まる。
次の作業は糸紡ぎである。
綿を糸車にかけて撚り合わせ、一定の太さと強度を持つ糸に紡いでいく。
この作業も熟練が必要な手作業である。
それにしても、自然界から収穫できる綿が、手作業で美しい糸に変化していくのが何とも不思議だ。
糸を紡いだら、今度はその糸を染めていく。
栗の皮、こぶな草、はんの木、矢車ぶし、藍などの自然の草木を煮て、色が染み出た液に糸を漬して染める。
化学塗料ではなく自然の草木から染み出た色で染められた糸からは、ほんのりと草原や森林の匂いがしてきそうだ。
こうして染められた糸は、長さを整えられた後、機織り機を用いて織られていく。その時に、緯糸に屑繭から取り出した絹糸であるつまみ糸を織り込んでいく。
屑繭とは、生糸として出荷出来なかった残り物の繭のことである。青垣町では、江戸時代から養蚕が行われていた。普通なら捨てる繭を無駄なく利用するところは、現代にも通じるエコロジカルな考え方だ。
丹波布の模様は基本的に縞模様であるが、染色された糸は、色の種類や濃淡が千差万別である。それらの糸を組み合わせて織られるわけだから、縞模様のバリエーションは無限に近い。
丹波布伝承館には、丹波布の作家が織った丹波布が展示してあるが、自然の色で染め上げた糸で織られた丹波布は、素朴で優しい感じがする。
丹波布(佐治木綿)は、文政年間から明治時代末期まで、佐治の農家で盛んに織られていた。
しかし、次第に機械織機に圧倒されるようになり、明治末期に一度廃絶した。
佐治木綿は、庶民の衣服や布団の皮として利用され、痛んだら最後は幼児のおしめに使われたので、現物はほとんど残っていなかった。
昭和3年に、民藝運動家の柳宗悦(やなぎむねよし)が、京都で美しい縞木綿を見つけ出し、その素朴な味わいに惹かれ、工芸研究家の上村六郎に産地の調査を依頼した。
昭和5年、上村はその縞木綿の産地が丹波の佐治であることを突き止めた。
昭和29年に佐治を訪問した上村は、昔佐治木綿を織っていた古老から制作方法を聞き出し、佐治木綿を丹波布という名称で復興させた。
平成10年には、道の駅あおがきの一角に丹波布伝承館が建てられた。丹波布の工程や作品を展示し、後継者育成のための講座なども開いている。
手作業で作られた品物は、これからどんなに科学技術が進んでも、人々を惹きつけ続けることだろう。
丹波布がこれからも作られ続けることを願う。
丹波布伝承館から出ると、上がったと思っていた雨がまた降っていた。駐車場の片隅に、鮮やかに紅葉した楓があった。
自然界の色彩がどうして生まれてくるのか不思議なことだが、自然の造形は、世の中で最も驚異的で不思議なことである。自然界に勝てる芸術家はいない。
丹波布が魅力的なのも、自然界が造った素材に、人が手間を惜しまずに手を加えて、日常生活に必要な道具にしたからだろう。