城崎温泉の中心近くにあるのが城崎文芸館である。
城崎文芸館には、城崎を舞台とした小説「城の崎にて」を書いた志賀直哉と白樺派に関する資料や、城崎温泉に関する資料などが展示してある。
文芸館の前には足湯がある。温泉街ならではの設備である。
足湯に隣接して、「城の崎にて」の文学碑がある。
私は、今回この記事を書く前に、20歳のころに読んだ「城の崎にて」を、約30年ぶりに読み返してみた。
水を打ったように静かな文章である。読んで心に水滴が落ちて波紋が広がるように感じた。
文学碑に刻まれているのは、話者が一人で大谿川沿いを上流に向かって散歩し、桑の枝の葉がひとつだけひらひら動くのを見る場面の文だった。
さて、文学館の1階には、城崎温泉に関する展示があった。
城崎温泉の古式入湯作法では、温泉寺で祈念された柄杓を持って入湯するのが作法とされているそうだ。
古くは入湯前に、温泉寺開山の道智上人の宝号と観音薬師の真言を唱え、柄杓に掬った湯を二口三口飲んでから入湯したという。
人々はこうして上人と仏様に諸病平癒を祈りながら入湯したわけだ。
また、入浴券のデザインの変遷が一目で分かるように、各時代の入浴券が展示してあった。
最も古いもので、昭和5年の入浴券があった。
城崎温泉は、近代に入ってからも文人墨客に愛され、様々な文学者がここを訪れている。
昭和5年には、与謝野寛、晶子夫妻が、山陰旅行の途中に立ち寄っている。
戦後には、司馬遼太郎も城崎を訪れている。
上の写真は、司馬遼太郎が、一の湯の前の王橋の欄干に凭れているところだろう。
おそらく、「街道をゆく」シリーズの取材で訪れた際の写真だろう。
志賀直哉が城崎を訪れたのは、大正2年のことである。東京山手線で電車にはねられた際に負った怪我を癒すために訪れた。
「城の崎にて」は、志賀がその時の経験から書いた小品である。
湯治に訪れた城崎で、小説の話者は、蜂や鼠、いもりといった小さな生き物の死を目の当たりにする。そこで生と死について考える。
怪我をして死に近づいたが現に生きている自分と、これら小さな生き物たちの死の間には、左程径庭がないと思った話者の素朴な感想が、静かな筆致で書かれている。
ただただ清冽な文章だ。笹の葉に光る朝露のようである。
志賀直哉と同じ学習院出身者で形成した文学グループ白樺派の小説家たちも、志賀の勧めがあったためか、しばしば城崎を訪れた。
私は白樺派の作品にはあまり親しまなかった。若いころは趣味の上でヒューマニズムに背を向けていたのである。
城崎文芸館の特別展では、城崎特産品の麦わら細工の作家前野治郎氏の作品を展示していた。
麦わら細工とは、染色した大麦のわらを切り開いて平らに伸ばし、糊で桐箱や色紙に張って、模様を編み出すことで作る工芸品である。
享保年間(1716~1735年)に城崎に湯治に訪れていた半七という人が、暇に任せて竹笛に赤・黄・青の彩色した麦わらを巻き付けて温泉客に売り出したのが始まりだという。
温泉街の気軽なお土産品だった麦わら細工だが、明治に入って民芸品から美術工芸品に飛躍を遂げ、明治後期に最盛期を迎えたという。
前野治郎氏は、昭和の麦わら細工の第一人者である。
前野治郎氏の作品が展示してあったが、驚嘆すべき技巧の作品群であった。
1階には、イラストマップの元祖と言われた前田虹映が昭和13年に描いた、「躍進の城崎温泉観光図」と題した城崎温泉の肉筆の鳥瞰図が展示してあった。
城崎温泉は、大正14年に発生した北但大震災で壊滅的な被害を受けたが、その後順調に復興した。
現在の古風な温泉街の原型は、この北但大震災後の復興の過程で生み出されたものである。
このあたたかみのある温泉街が、今後も人々の傷を癒し、心を和ませることを望むばかりだ。