鷺山古墳の見学を終え、甑山西麓の墓地の駐車場に戻った。
車に乗って、鳥取市国府町宮下にある浄土宗の寺院、無量光寺に赴いた。
この寺の背後の山中に、この地で生まれて文武朝に仕え、和銅元年(708年)に死去し、和銅三年(710年)にこの地に葬られた伊福吉部徳足比売(いふきべとこたりひめ)の墓跡がある。
無量光寺の山門の左手から、伊福吉部徳足比売墓跡への道が続いている。案内板に従い歩いていく。
歩いていくと、途中、案内板が倒れて行く方向が分からなくなる場所があった。
倒れた案内板の矢印の示す方角に行ったが、行き止まりであった。
上の写真の左上の急斜面を登ると、登山者用の鎖が見えてくる。その鎖を頼って登っていくと、道が開けた。更に登っていった。
無量光寺から歩き始めて約15分歩くと、屋根に覆われた伊福吉部徳足比売墓跡があった。
伊福吉部徳足比売は、大和の藤原京で采女として文武天皇に仕え、慶雲四年(707年)に従七位下を授けられた。
伊福吉部氏は、因幡国法美郡を治めていた豪族だった。ひょっとしたら、昨日紹介した鷺山古墳の被葬者も、伊福吉部氏の縁者だったのかも知れない。徳足比売は、伊福吉部氏の娘であった。
伊福吉部徳足比売は、和銅元年(708年)七月に藤原京で死去し、火葬された。
火葬された伊福吉部徳足比売の遺骨は、青銅製の骨蔵器に入れられ、和銅三年(710年)十月に故郷に運ばれて、この墓石の下に埋葬された。
安永三年(1774年)、この無量光寺の裏山の石の下から、骨蔵器が発見された。
上の写真の墓石の下の円形の穴の中に、骨蔵器がすっぽりと収められていた。
骨蔵器には、伊福吉部徳足比売の事績を記した文字が刻まれていた。
日本で最初に火葬が行われたのは、文武天皇四年(700年)のことで、僧侶の道昭が荼毘に付されたのが始まりだという。
この伊福吉部徳足比売の遺骨が納められた骨蔵器は、当時の日本の葬制を知ることが出来る貴重な資料として、国指定重要文化財になっており、現在は東京国立博物館に収蔵されている。
日本で火葬が広まりだすのは、概ね奈良時代からで、最初は貴族や役人が火葬されていた。庶民は土葬が主流だった。
今では火葬が100%に達しているが、決して火葬が日本の伝統というわけではない。葬制は時代とともに変遷している。
人は必ず死ぬものである。故人を弔う葬制というものも、人間社会の大切な一部である。