西屋城跡 後編

 天正十一年(1583年)、宇喜多氏の家臣斎藤玄蕃が守る西屋城を毛利勢が攻撃した。

 西屋城は落城したが、その際に落命した人の石碑が西屋城跡南東の杉地区に残っている。

 西屋城跡東南麓にある泉神社から、国道179号線を少し南西に行った道沿いに、斎藤玄蕃の若君が討たれた場所とされる若子様がある。

若子様のある場所

 西屋城が落城した時、斎藤玄蕃の若君は、落ち延びるため、付き人と共に城を出た。

 だがこの場所で若君が泣き声を出したため、察知した毛利勢に討たれたという。

 若君を葬った場所とされる若子様は、国道沿いのフェンスの奥にある。若子様と、上の坊、下の坊というその他2つの石碑の所在を示す説明板があるが、その奥に若子様の石碑がある。

史跡若子様外二坊の説明板

若子様外二坊の案内図

 説明板の横の金属製の階段を上がると、若子様の石碑があった。

 ここは夜泣き、夜尿症におかげがあるというので、参拝する者がいるという。

若子様の石碑

 石碑は花崗岩製である。近世になって建てられたものかも知れない。

 敵将の子供の命も奪う昔の戦は、非情なものであった。

 若子様の南西に、吉井川に架かる杉橋がある。杉橋を渡ってすぐ左折して直進すると、若君の付き人の乳母が殺害された場所と伝えられる下の坊がある。

下の坊

 石碑には、「安永三年(1774年)十二月廿八日 贈慈眼院本覚霊」と刻まれている。

 慈眼院という名前からか、眼病の治癒にご利益があるとして参拝する者が多いという。

 さて、問題は次の上の坊であった。

 上の坊には、斎藤家の軍監平井助之進利政もしくは斎藤玄蕃の養子内蔵丞久親の墓があるとされている。

 霊験あらたかだが、石碑を建ててもすぐになくなるという言い伝えがある。

 先ほどの案内図を見ると、観音寺という寺の東側にありそうだが、そこは山であった。

 私が観音寺の建物の脇の駐車場に車をとめて、上の坊を探していると、寺のご婦人が近づいてこられた。

 もう夕暮れ時であった。ご婦人は私の行動をさぞ不審に思われたことだろう。

 ご婦人から、「お参りですか」と声をかけられたので、勇を鼓して「探しているところがありまして。上の坊というのですが・・・」と尋ねると、予想に反して、「ああ、上の坊」と、場所をご存知の様子であった。

 ご婦人から、「平井さんの子孫の方ですか」と尋ねられたので、「違うのですが」と答えた。

 軍監平井助之進利政の子孫が、今でもこの地を訪れていることが分かった。

 ご婦人は、このようなお話をされた。

「この前九州に住む平井さんの子孫の方が、上の坊に石碑を建てるためにここを訪ねてこられました。私も子孫の方について、あの山に入りました」

上の坊のある山

「でも道がなく、藪のなかを歩いていかねばなりませんでした。(ここでご婦人はスマートフォンで撮った山中の写真を示して下さった)こんなところを歩かなければならなかったのです。30分ばかり登ったところに、4本の大木がありました。その木の間に平井さんの子孫の方は石碑を建てました」

「その場所は、あの駐車場(と観音寺の西側の砂利の駐車場を示した)の先から始まる道を真っすぐいったところです。でも今は雪に覆われて、とても行けません。鹿や猪といった獣もよく出ます」

「平井さんの子孫が石碑を建てた場所は、本当の上の坊よりもまだ下になります。この山の所有者は、もう80歳になる方ですが、その方のお祖父さんの弟さんが、上の坊に祠を建てたそうです。その祠は、この前建てた石碑よりも更に上にあるようですが、私もそこまで行ったことはありません」

 今80歳の方の大叔父のころと言えば、大正時代くらいだろう。その頃に建てられた祠が、今どうなっているのか興味をそそられた。

 だが、もう日暮れが近づいていた。今日一日雪中を歩いて疲労した私に、今から雪の山中を歩いて上の坊に行く気力は残っていなかった。

 私はご婦人にお礼を言って、帰宅することにした。

 上の坊を訪れることは出来なかったが、地元の人しか知らない貴重なお話を伺うことが出来た。

 実際に上の坊を訪れるより、ご婦人のお話を伺えたことの方が得難い体験だったと思った。