妙高山から下山し、次なる目的地の兵庫県丹波市市島町下竹田にある真言宗の寺院、鎌倉山清薗寺(せいおんじ)に向かった。
参道の南端には、江戸時代初期の伝説的な彫刻家、左甚五郎が寛永年間(1624~1644年)に建造したと伝わる総門がある。
この総門は、六脚門である。元々茅葺であったそうだが、今は銅板葺になっている。
過去には朱塗りされており、「丹波の赤門」と呼ばれていた。今でも門の一部に朱色が残っている。
また、尺を使わずに建てたので、「尺なしの門」とも称されている。
総門を潜って直進すると、寛政七年(1795年)に再建された仁王門が目の前に現れる。
仁王門には、明和四年(1767年)に造立された仁王像が立っている。阿形像、吽形像ともに勇ましい姿だ。
仁王門の中央真後ろには、貞和三年(1347年)の銘のある石造灯籠がある。
石造灯籠の真後ろに薬師堂があり、伽藍が直線配置されているのが分る。
この石造灯籠は、石英粗面岩で造られたもので、礎石は八角形である。
火袋には、四仏の梵字が刻まれている。
また竿石には、
右志者為天下泰平(みぎこころざしはてんかたいへいのため)
六道四生一切普利(ろくどうししょういっさいあまねくりせ)
貞和三丁亥九月八日
左衛門尉平顕信敬白
と四列に文字が刻まれている。
それにしても、南北朝期の刻文が、今でも読み取れるほど鮮明に残っていることに感動する。
六道は衆生が輪廻する地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天のことを指し、四生は胎生、卵生、湿生、化生という、生物が生まれ出る際の四種類の出生の仕方を指す。
「六道四生一切普利」は、この世界で悟りに至らずに輪廻を繰り返す全ての生き物を普く利することを願った文である。
南北朝時代は、戦乱に次ぐ戦乱の時代であった。この石灯籠を寄進した平顕信という人物も、名前からして武将の一人であろう。
戦士が悟りや解脱を求めていては、戦うことは出来ない。六道輪廻の中で修羅にならなければならない。それでも一切衆生の平安を願って、このような灯籠を寄進し、銘文を刻んだのだろう。
寄進者の気持ちが、このように現代まで伝わったということは、貴重なことである。