本堂の北側には、三重塔が聳える。私が史跡巡りで訪れた10番目の三重塔である。
今の三重塔が建てられたのは、そう古くはない。旧塔跡に文化十二年(1815年)に再建されたものである。
西幸西村、草井幸右衛門らが私財を投げうって再建したそうだ。この二人は、恐らく地元の名士だったのだろう。
この三重塔を建築したのは、近世社寺建築に携わった大工集団である邑久大工である。彼らの系譜や技法を知る上で、重要な建築資料であるという。
三重塔の前には、蓮の花が咲いている。仏教を象徴する花である。
三重塔の奥には、餘慶寺を開いた報恩大師を祀る八角堂がある。
新しいお堂であり、天井には鮮やかな格天井絵が描かれている。
祀られている報恩大師像も、そう古い像ではなさそうだ。
八角堂には、八本の摩尼車が奉納されている。
摩尼車には、餘慶寺と山内各院に祀られている神仏のご宝号が刻まれている。中には経巻が奉納されていて、心を凝らして祈念しながらこの摩尼車を回すと、お経を唱えたのと同じ功徳が得られるという。
十三仏堂の地下には、初七日から三十三回忌まで、死者が出会う冥界の王の本地仏十三仏が祀られている。
七七忌の四十九日に現れる太山王の本地仏は薬師如来である。今日は父の四十九日で、法要では僧侶が薬師如来の真言を唱えていた。
三重塔の北にある薬師堂は、その薬師如来を祀っている。薬師堂は、山内の堂塔の中では、簡素な建物である。
享保十九年(1734年)の再建棟札が残っている。
正面の扁額には、「医王窟」と記されている。祀られている薬師如来が、古くから眼病などの病に効験があるとされていたからだろう。
薬師堂には、ご本尊である国指定重要文化財の木造薬師如来坐像と、同じく国指定重要文化財の木造聖観音立像、岡山県指定重要文化財の木造十一面観音立像が祀られている。
江戸時代には、朝観音、夕薬師と呼ばれ、信仰を集めたという。
薬師如来坐像と聖観音立像は、平安時代前期の作、十一面観音立像は平安時代後期の作であるという。
薬師堂の隣には、簡素な社が二棟並び立っている。
向かって右側は、比叡山の地主神である日吉大神(山王権現)を祀る日吉社である。餘慶寺の鎮守社として祀られている。
日吉大神の使いは猿であるとされるが、日吉社の蟇股には、見ざる言わざる聞かざるの三猿の彫刻が彫られていた。
隣の愛宕社は、火難を防ぐ神様、勝利を呼ぶ神様とされている。餘慶寺愛宕社には、愛宕社の神様の本地仏である勝軍地蔵が祀られている。
毎年7月23日に開扉され、法要が勤められるという。
ここ最近、父の法要の関係で、仏事に接することが増えた。昔は親類の法要に参列しても、仏事の意味を深く考えなかったが、ここ最近は、法要でお勤めをされる僧侶の方が、法要後に懇切に仏事の解説をして下さるので、仏教の世界を身近に感じるようになってきた。
そんな気持ちで寺院を巡ると、古い寺院に残る昔の人の信仰の形跡も、近しいものに感じるようになって来た。
最近コロナ後の生活を、世間では新常態という言葉で呼ぶようになってきたが、生活様式が変っても、生と死を巡る人々の気持ちは、昔とさほど変わらないのではないかと思う。