岩嶺山石峯寺 前編

 三木市吉川町の東光寺から南下して、神戸市北区淡河(おうご)町に入る。

 私は今、播磨、備前、美作の三国の史跡巡りをしている。現在では、地元兵庫県でも、神戸市は播磨に入らないと認識されているが、実際の所は神戸市西区、垂水区の全域と須磨区、北区の一部は播磨国の範囲に入っていた。

 神戸市北区淡河町は、播磨の一部である。

 私は、山川出版社の「歴史散歩シリーズ」を頼りに史跡巡りをしているが、神戸市の史跡は「兵庫県の歴史散歩」上巻に載っている。

 今回は、「兵庫県の歴史散歩」上巻に載っている史跡の初めての紹介である。

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兵庫県の歴史散歩」上巻

 この本は、私が手にした3冊目の「歴史散歩シリーズ」である。全国制覇への道のりは遠い。

 さて、神戸市北区淡河町神影(みかげ)にある岩嶺山石峯寺(がんれいざんしゃくぶじ)を訪れる。

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山門

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仁王像

 石峯寺は、白雉二年(651年)に法道仙人が開基した。天平十九年(747年)には、行基菩薩が薬師堂を建立して、法相宗の寺院になった。

 弘仁十四年(823年)に嵯峨天皇の勅願により三重塔が建立された。その落慶法要に弘法大師空海が訪れ、それ以降は真言宗の寺院となった。

 最近気づいたが、史跡として古くから続く寺院の多くは、真言宗の寺院である。これは、播磨や備前や美作だけのことなのだろうか。今後史跡巡りを続けるうちに分かってくるだろう。

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参道

 石峯寺は、かつては、東西二里、南北一里の範囲に70余の堂塔が立ち並ぶ大寺院だったようだ。今は石峯寺の参道沿いに、十輪院竹林寺があるのみである。

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十輪院

 十輪院には、神戸市指定名勝となっている池泉式庭園がある。

 十輪院の山門を潜るが、明らかに無人である。奥に行けば庭園がある。背後の西岡山の景色を庭園に取り込んだ借景式庭園である。

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十輪院庭園

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 雑草が多少伸び始めていて、整備が追い付いていない印象がある。中央には富士山型の蓬莱石を据えている。

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 蓬莱石を中心に庭園が構成されている。江戸時代初期に作庭されたものと言われている。

 十輪院の北隣にある竹林寺は、茅葺屋根の庫裏が印象的だ。

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竹林寺

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竹林寺庫裏

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竹林寺全景

 竹林寺庫裏は、神戸市指定歴史的建造物である。茅葺の入母屋造りは、日本の最も古い民家の様式を受け継いでいる。

 竹林寺庭園も神戸市指定名勝である。

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竹林寺庭園

 数多くの石を組み合わせた築山がある。苔むした石もいいものだ。

 さて、参道を登り詰めると、石峯寺が見えてくる。

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石峯寺

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 当日は生憎の雨だったが、雨に煙るお寺もいいものである。

 このお寺の発展には、7世紀の法道仙人、8世紀の行基、9世紀の空海と、仏教界の3人の偉大な僧侶が関わっている。

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孝徳天皇勅願所を表す石碑

 鐘楼の下には、この寺が、孝徳天皇の勅願で白雉年間に開創されたことを示す石碑がある。

 鐘楼は、入母屋造りの屋根と袴腰がどっしりした、味のある建物だ。

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鐘楼

 境内に入って右手にある薬師堂は、天平年間に聖武天皇の勅願で建てられたものである。国指定重要文化財だ。

 天平年間に、全国で悪疫が流行した。この時に聖武天皇は七体の薬師如来像の制作を命じ、光明皇后は、悪疫消除を祈願して全国に聖舎を建てた。石峯寺薬師堂も、この時に建てられ、行基菩薩が御本尊の薬師如来像の開眼をしたと伝えられている。

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薬師堂

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 今ある薬師堂は、室町時代後期に建てられた中世仏堂で、和様と天竺様の折衷様式である。軒が優美に伸びた入母屋造りの屋根が女性的だ。

 内部に入ることは出来なかったが、外陣に建つ柱の木目が美しかった。

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薬師堂の外陣

 寺院は、長い年月の間に、時の権力者や高僧の助力を得て発展したり、戦乱で衰滅したりする。

 石峯寺も、嘉吉の乱応仁の乱天正時代の戦乱で衰滅したようだが、江戸時代に入り、明石藩と幕府から御朱印寺領を受け、安定した運営が出来た。

 やはり、天皇が勅願して建立し、著名な僧侶が関わった寺院は、広く信仰を集め、衰滅の危機を乗り越える力があるように思える。