西求女塚古墳

 2月23日に摂津の史跡巡りを行った。

 最初に訪れたのは、菟原娘子(うないおとめ)の伝説に登場する菟原壮士(うないおとこ)の墓と言われる西求女塚(にしもとめづか)古墳である。

西求女塚古墳のある公園

公園の入口

 西求女塚古墳は、神戸市灘区都通3丁目にある。

 菟原娘子の伝説は、「万葉集」に詠われ、10世紀には「大和物語」の中で語られた。

 高橋連(たかはしのむらじ)虫麻呂が詠ったと言われる、「万葉集」巻第九の1809~1811歌に出てくる伝説はこうである。

 摂津国蘆屋に住む菟原娘子は、美人で有名であった。菟原娘子と同郷の菟原壮士と和泉国の茅涼壮士(ちぬおとこ)は、菟原娘子を巡って競い合った。

西求女塚古墳の前方部の隅にある石仏や墓石

 自分を求めて2人の男が争うのを見て心を痛めた菟原娘子は、母親に「物の数でもないこの私故に、立派な殿御たちが張り合っておられるのを見ると、生きていても結ばれるはずはありません。いっそ黄泉の国でお待ちしましょう」と言いおいて、自死した。

 その夜、夢で菟原娘子の死を知った茅涼壮士は、後を追って死んだ。

 死に遅れたのを知った菟原壮士は、茅涼壮士に遅れたことを地団駄を踏んで悔しがり、太刀を佩いたまま2人の後を追って死んだ。

前方部から後方部を望む

 死んだ3人の親族たちが集まって、この悲話を後世に伝えようと、菟原娘子の墓を真ん中に築き、その東側に茅涼壮士の墓を、西側に菟原壮士の墓を築いたという。

 即ち、今に残る処女塚古墳、東求女塚古墳、西求女塚古墳である。

 西求女塚古墳は、菟原壮士の墓だとされている。

後方部

 平成4年に行われた発掘調査で、西求女塚古墳は、全長約95メートルの前方後方墳という珍しい形をしていることが分かった。

 後方部には、慶長元年(1596年)の慶長の大地震で崩落した竪穴式石室があり、そこから三角縁神獣鏡7枚を含む12枚の中国製の鏡12枚、鉄剣、鉄刀等が発掘された。

 石室が崩落したおかげで、盗掘を免れたようだ。

発掘された銅鏡

 この古墳は、埋葬品から古墳時代前期の3世紀後半から4世紀前半に築造された、大和王権と関係の深い地元豪族の墓と推定される。

 菟原壮士の墓というのは、どうやら伝説の中の話のようだ。

 西求女塚古墳と東求女塚古墳の両方が、両者の中央にある処女塚古墳の方向を向いているため、後世の人が墓の配置を見て伝説を作ったのだろう。

史跡西求女塚古墳の碑

 西求女塚古墳は、平成4年の発掘後、史跡公園として整備された。今では国指定史跡である。

 後方部は、円形に整備されている。おかげでこの古墳の成り立ちを知らずに形だけを見た人は、前方後円墳と間違えるだろう。

後方部から前方部を望む

前方部

 前方部の隅に、小さな祠や石仏、墓石、石造五輪塔などがあった。

 おそらく昔、この古墳の上に寺院が建っていたのだろう。その寺院が廃寺になり、残された石仏や墓石が古墳の片隅に集められたのだろう。

 菟原娘子の伝説は、ロマンチックな悲恋説話である。

 古代人の想像力を搔き立てた古墳が、今も神戸の市街地に残っているのは、古墳時代に成立した伝説の生き証人が時を超えて残っているようで、貴重なことのように感じる。