石龕寺のある岩尾山から下りて、車を西に走らせる。
旧友井家住宅は、元々は山南町阿草の集落に建っていた。友井家は、慶長年間(1596~1615年)から現代まで15代続く農家で、檜皮葺を家業としていたという。
元禄年間(1688~1704年)に、当時阿草村年寄だった四代目の友井徳左衛門に自治の功績があったことから、村民が謝礼のために送ったのが、この住宅であるという。
村民から家をプレゼントされるということは、余程の功績があったのだろう。
残念ながら、私が訪れた日は閉館しており、建物内部を見学することが出来なかった。
茅葺、入母屋造、妻入の建物で、大きさは桁行六間、梁行三間半である。
柱は栗材、梁は松材を用い、天井は竹の簀子張であるという。内部には、畳敷きの座敷もあるそうだ。
建築年代は、伝承通り18世紀初頭と推察されている。元禄時代の村の長者の家がこのようなものだったことが理解できる。旧友井家住宅は、国指定重要文化財である。
旧友井家住宅から更に車を西に走らせる。山南町和田地区の岩尾城跡と親縁寺を訪れる。
岩尾城跡は、標高358メートルの蛇山の山上にある。
岩尾城は、永正十三年(1516年)に、この地方を領していた和田日向守斉頼(ときより)が築城した。和田氏は、地元を治めた国人だったのだろう。
和田氏の下屋敷跡に建っているのが、浄土宗の寺院、親縁寺である。
和田氏は、永正三年(1506年)に、自家の菩提寺として石蓮寺を建立した。
しかし、天正七年(1579年)の明智光秀の攻撃により、和田氏は滅ぼされ、岩尾城は落城し、石蓮寺も焼失する。
天正十四年(1586年)、秀吉の家臣佐野下総守栄有が岩尾城に入城し、城を改築した。また翌天正十五年(1587年)、佐野下総守は、焼失した石蓮寺を再建し、親縁寺と改称した。
親縁寺には、御本尊として、木造阿弥陀如来像が祀られている。この像の右足のほぞに、「湛慶仏 修復ス 康俊 貞和四年(1348年)」と朱書されており、像が鎌倉時代の仏師湛慶の作で、貞和四年に修復されたものであることが分った。木造阿弥陀如来像は、兵庫県指定文化財である。
この親縁寺の墓所に、岩尾城跡のある蛇山への登山口がある。
ここから山頂までは、約40分の道のりである。
蛇山には、和田小学校から登る道もあるが、親縁寺から登る道の方が急であるという。
登ると確かに急である。左右に羊歯が生えた道が続く。
しばらく行くと、戦国山城定番の曲輪や堀切が見えてくる。
曲輪は、山の斜面を削って作った広場で、周囲を削って急傾斜にし、攻め難くしている。
曲輪には守備兵を置いて、急傾斜を登って来る敵兵を上から攻撃して防いだ。
下知殿丸曲輪は、東西南の尾根が集まる場所で、敵兵を防ぐのに重要な場所だった。南北に長い長靴型の曲輪である。
堀切は、麓から攻めあがってくる敵兵を防ぐための、人工的に掘った深い谷のことである。
戦国時代の山城というと、多くの人は山上に石垣が積まれた城を想像すると思うが、山上に石垣が築かれ始めたのは、安土桃山時代になってからで、この岩尾城のように、秀吉の時代になってから石垣が築かれたものが大半である。
それまでの山城は、土を掘って堀切や曲輪を作り、堀切や曲輪を掘って出た土で土塁を築いて防御機構にした。戦国時代の城は、「土の城」であって、石垣の城が築かれたのは、秀吉の天下統一事業が進んでからだ。
城という字も、「土で成る」と書くではないか。
更に登っていくと、石垣が見えてくる。この石垣は、秀吉配下の佐野下総守が築いたものであり、和田氏が築いたものではない。
西の丸は、三方を高さ約4メートルの石垣でがっちり固められた曲輪で、丹波の山城の石垣機構の中では、最も優れていると言われている。
二の丸の方から天守台を望むと、三重に巡らされた石垣が見える。
天守台は、小さな四角い空間である。和田氏が築城した岩尾城の土塁の方が天守台より高く、土塁に登れば天守台を見下ろすことが出来る。
二の丸からの眺めは非常に好くて、山南町の平地部を一望の下に収めることが出来る。
天正七年の織田軍の丹波攻めの際は、この平地の向うから、明智光秀の軍勢が押寄せてくるのが見えたことだろう。
岩尾城は、慶長元年(1596年)に、小城であるということで、秀吉の命により廃城となった。
現在残っている山城で、石垣がある城は、まだ観光資源になるので登山道などが整備されているが、土だけで出来た城は、注目されることなく文字通り山の中に埋没してしまっている。
「土づくりの城」という言葉に、最近戦国のロマンを感じるようになってきた。