片山潜記念館

 今回紹介するのは、明治時代に日本社会党(戦後に設立された日本社会党とは別の政党)を結成し、大正11年日本共産党の創設に尽力した片山潜(かたやません)の事績についてである。

 今まで当ブログを読んでこられた方の中には、当ブログの筆者を保守的な政治思想の持主だと思われた方もおられるだろう。

 それについては否定しないが、自分と異なる思想や信仰に関する史跡を無視するならば、本当の意味で我が国の全体像を理解することから離れることになる。

 過去に我が国に生きた全ての人の生きた事実を尊重するという当ブログの趣旨からすれば、社会主義者共産主義者であっても、その生きた事実は尊重しなければならない。

 ちなみに、弱者の味方に立つという左翼思想の原点は、決して無意味なものではない。

 本山寺のある山から下りて、麓にある岡山県久米郡久米南町羽出木(はでぎ)集落の片山潜記念館を訪れた。

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片山潜記念館

 片山潜記念館は、のどかな農村の中にある。記念館のすぐ近くに、片山潜の生家藪木家と、片山潜の生母の実家がある。

 記念館を訪れると、館は閉まっていた。私が記念館の側に車を停めると、片山の生母の実家の玄関先にいてこちらを見ていた年配の女性が近付いて来た。

 女性が、「見学なさいますか」と声をかけてこられたので、私は、「ええ。お願いします」と答えた。

 女性の「どちらからおいでですか」という問いに、私は「兵庫県です」と答えた。

 女性は、遠方からわざわざこの記念館を訪れた私がどんな人間か怪訝に思われたようだった。

 「あの、片山潜のことをご存じですか?」

 私は、正直に言ってよく知らなかったが、「岡山県の歴史散歩」に書いてあった内容を答えた。

 「日本社会党を作った人ですよね」

 それを聞いて、女性は私を左翼の人間と思ったらしかった。「あの・・・共産党の方ですか?」と問いかけてきた。

 誤解されて不思議と愉快な気分になった。私は、三島由紀夫が「私の遍歴時代」の中で、戦後間もないころに、文芸評論家で日本共産党員だった小田切秀雄から、共産党への入党を勧められたことが鮮やかに記憶に残っていると書いている個所を思い出した。

 私は微笑して、「違います」と答えた。

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片山潜の肖像

 女性は記念館の玄関を開けて、私を中に招じ入れて下さった。そして片山潜の年表を私に示して、丁寧に説明して下さった。

 片山潜は、安政六年(1859年)に羽出木の地に生まれた。庄屋藪木家の二男で、幼名を菅太郎といった。

 女性は、「片山潜は、幼いころから家事の手伝いをして苦労をしていましたが、ある時この記念館の近くにあった寺小屋の前を通り、そこで勉学をしている子供たちを見て、『自分も家業の手伝いだけではなく、勉学をせねば』と決意し、勉学の道に入ったのです」とおっしゃった。

 片山は、親戚の片山家に養子に入った後、岡山師範学校(現岡山大学)に入学するも中退し、25歳でアメリカに渡った。

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渡米したころの片山

 片山は、アメリカで働きながら大学に通った。30歳でグリンネル大学に入学した際、社会主義に興味を持ち、研究を始めた。

 36歳の時にイェール大学神学部を卒業し、明治29年、37歳の時に帰国し、名前を菅太郎から潜に改めた。

 帰国してから、幸徳秋水安部磯雄らと社会主義研究を進め、明治34年、42歳の時に、日本初の社会主義政党社会民主党を結成する。

 しかし、治安警察法により、同党は即日解散となる。

 片山は、明治39年堺利彦、西川光二郎らと日本社会党を結成する。

 大正元年東京市ストライキを指導して警察に検挙、投獄されたが、同年9月、大正天皇即位の恩赦により出獄した。

 大正3年、片山はアメリカに亡命し、以後日本に戻ることはなかった。

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片山潜の著作

 その後片山は、ソビエト連邦に渡り、1922年に世界各国の共産党綱領作成に協力する国際委員会のメンバーとなり、日本担当として、日本共産党の綱領を作成する。

 1933年に片山はクレムリン病院で病没する。モスクワ赤の広場で片山の葬儀が行われた。

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赤の広場での片山潜の葬儀の様子

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 女性は、葬儀の写真を示して、「あの、片山の棺をかついでいるあの人物をご存じですか」と問いかけてこられた。

 私が「スターリンですね」と答えると、女性は、「そうです。片山の葬儀は、ソ連が国を挙げて行ったのです」と誇らしげにおっしゃった。

 館内には、片山がまだ日本に居た時に、地元に宛てた書簡が展示してあった。中には、羽出木の住民に北海道への移住を勧めた書簡もあった。

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片山潜の書簡

 また、ロシアで発行された片山潜の記念切手があった。

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片山潜の記念切手

 女性は、「片山は海外から日本に手紙を出しましたが、片山からの手紙は全て警察に没収されたのです。戦後になって、平和な世の中になり、ようやく片山の記念切手がソ連から日本に届けられました。それがこの切手です」とおっしゃった。

 また女性は、館の天井を示した。

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片山潜記念館天井の明り取り

 「片山は、亡くなる前にモスクワの病院に入院していた時も、故郷の空を懐かしんだそうです。そのため、この記念館を建てた時に、この明り取りを設けたのです」

 片山は「自伝」の中で、「予が故郷の秋は閑静であって空気の透明玲璃なることは、たとえようがない。欧州第一と称する蘇国トロサックスの空気よりも、なおいっそう鮮やかである」と書いている。

 故国を追われた片山は、終生故郷の青空を懐かしんだようだ。

 館の外に出ると、その美作の美しい秋空が広がっていた。 

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片山潜記念碑

 館の前に片山潜の記念碑があり、記念碑の奥に片山の生家の藪木家があった。

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片山の生家藪木家

 片山潜記念碑の前には、鮮やかな赤い花が供えられていた。

 女性は、「この花は、この間共産党の方が来られて供えていったものです」と説明した。

 私は意外な感を持った。宗教を支配者が人民を支配するための阿片と呼ぶ共産主義者も、死没者に花を供える習慣を持つのである。

 死者を弔う気持ちは、どうやら思想以前に人間に備わっているもののようだ。

 女性は、こうおっしゃった。「戦前は、アカというだけで、その思想の持主だけでなく、家族も周りから白眼視されたのでございます。本当につらい時代でございました」

 戦後の日本では、左翼思想を奉じているというだけで逮捕されたり投獄されることはなくなった。しかし戦前は、左翼思想を持つだけで政府に弾圧され、投獄された。

 私に片山潜記念館を案内して下さった女性は、戦前に弾圧された本物の左翼思想家の縁者である。

 その様な方から、かつて家族が受けた苦しみを、生の言葉で聞くことが出来たのは、私の人生にとっても、当ブログにとっても、意味の深いことであった。