浄土寺から北西に2キロメートルほど行った兵庫県小野市広渡町に、広渡廃寺跡歴史公園がある。
ここは平成11年に史跡公園として整備された。
広渡廃寺は、7世紀後半に開基された広渡寺の跡である。昭和48年から昭和50年にかけて発掘された。現在は、国指定史跡となっている。
史跡公園の中には、広渡廃寺から出土した瓦などの出土品等を展示する資料館がある。また、かつての基壇も再現されている。
公園の南西隅には、在りし日の広渡寺を復元した20分の1の模型が設置されている。
中門と回廊に囲まれた空間に、東西の塔と金堂、講堂がある、薬師寺式の伽藍配置であったことが分かる。
この模型、ジェラルミンとセラミックで出来ていて、フッ素樹脂で塗装されている。設置されてから20年は経っているだろうが、全く色あせていない。
資料館には、当時の広渡寺の様子を描いた水彩画が展示してある。それを見るとイメージを掴みやすい。
神戸大学が保管する「浄土寺縁起」には、鎌倉時代初頭には、広渡寺を含むこの辺りの古来からの寺院が、大破壊を受けて荒廃していたことが書かれている。広渡廃寺から発掘される遺物は、平安時代後期までのものなので、平安時代末期の争乱で荒廃したのではないかと思われる。
公園の南西に、小高い丘がある。そこから広渡廃寺の全景を眺めることが出来る。
フェンスで囲まれた模型の向こうに、再現された基壇が広がる。
基壇とは、建物の重量を支えるための基礎部として築かれた盛り土の台のことで、固い地盤の上に土や砂を少しづつ交互に突き固めていく版築という技法で築かれている。基壇の周囲は、化粧と呼ばれる外装がある。広渡寺は、乱石積みという化粧が行われていた。
広渡廃寺は、この乱石積みの化粧を含めて、基壇が再現されている。
基壇の上には、礎石が置かれているが、置かれているものが当時の礎石なのかどうかは分からない。
西塔の基壇の中央には、小野市指定文化財の西塔心礎が設置されていた。
かつてあった広渡寺西塔の心柱の重みを受け止めていた礎石である。これを見て、石にも表情があるものだと感じる。
東塔、西塔の背後には、金堂、講堂、北門の基壇が控えている。
金堂は、今の寺院でいう本堂で、ご本尊が祀られた建物である。広渡寺の金堂は、鴟尾の載った建物であった。
金堂の基壇跡からは、鴟尾や鬼瓦の破片などが発掘されている。
また、奈良時代から平安時代後期にかけての軒丸瓦、軒平瓦も発掘されている。時代ごとに模様が変遷している様子が分かる。
奈良時代前半の軒丸瓦の方が、素朴な模様で、大陸の寺院を思わせる。
金堂には、土製の仏像(塑像)が祀られていた可能性が高い。というのは、金堂基壇跡から、土製仏像の螺髪が出土しているからである。
私は、土製の仏像を見たことがない。白鳳時代には一般的だったのだろうか。
「浄土寺縁起」には、広渡寺に祀られていた薬師如来を、浄土寺薬師堂に運び、ご本尊にしたと記載している。広渡廃寺の法灯を継いだのが、浄土寺と言えるのではないか。
今回は地味な出土品を多く掲示した。出土品の多くは破片に過ぎないものばかりだ。このような破片や土壇や礎石からでも、広渡寺の模型のような、壮大な寺院がここにあったことを想像することができる。
わずかな史料からでも、過去の建物だけでなく、人々の生活や出来事を想像し、復元することができる。
考古学や歴史は、推理小説のように面白いものだ。