岡山県津山市高野本郷にある日蓮宗の寺院・玄好山萬福寺を訪問する。
この寺には、元禄十一年(1698年)に発生した惣百姓一揆である高倉騒動の中心人物・堀内三郎右衛門の墓がある。
美作国は、津山藩森家の所領であったが、農民は津山藩が課す重税に苦しんでいた。藩主森氏は改易され、津山藩領は1年間幕府領となった。
幕府は年貢率を五公五民に下げた。しかし、1年後津山藩主となった松平氏は、年貢率を旧の六公四民に引き上げた。
これに困窮した百姓たちは、大庄屋に押しかけ、年貢の減免を郡代所に求めるよう迫った。この一揆には、堀内三郎右衛門の弟である堀内佐右衛門、堀内四郎右衛門も加わっていた。
津山藩は、百姓の嘆願を制することが出来ないと知るや、一旦偽って減免を承諾して一揆衆を解散させ、再度大庄屋を説得して年貢を減免できないと言い放った。
この時に、大庄屋の中で最後まで百姓の意見を代弁して引かなかったのが堀内三郎右衛門であった。
翌年、津山藩は、堀内三郎右衛門、佐右衛門、四郎右衛門の三兄弟と三郎右衛門の長子平右衛門を含む8名を斬罪に処し、先の4名は兼田河原で重罪人としてさらし首となった。
萬福寺は、さらし首となった4人を含む堀内家6人を憐れんで境内に葬り、墓を建てた。右から佐右衛門、平右衛門、三郎右衛門、三郎右衛門の妻、四郎右衛門、三郎右衛門の母か弟の妻の墓である。
また境内には、昭和6年になって建てられた堀内三郎右衛門君碑がある。
私は、中公文庫の「日本の歴史」シリーズを読んでいるが、江戸時代の武家による農民支配の理不尽さと苛烈さは凄まじいものがある。
戊辰戦争で官軍が急速に幕府を打ち破ることが出来たのは、農民の反幕府反武家感情も与って力があったのだろうと思う。
もちろん武士による支配が全てマイナスだったわけではない。武家が力を持っていた軍事政権だったからこそ、日本は欧米列強による植民地支配を免れたとも言えるからである。歴史を一面だけから見ることは出来ない。
しかし、大庄屋でありながら百姓の側に立った堀内三郎右衛門の心意気は立派であると思う。
萬福寺から南東に行った津山市河面に真言宗の寺院清瀧寺がある。
清瀧寺は、弘仁十二年(821年)、嵯峨天皇の勅旨で、弘法大師が建立したと伝えられる。
一昨日紹介した新善光寺も弘法大師開基と伝えられている。大師は美作を訪れたのだろうか。
清瀧寺本堂は、寛文九年(1669年)に、津山藩主森忠継公の寄進により再建された。厨子の中には、伝行基菩薩作のご本尊、千手千眼観世音菩薩像が祀られている。脇仏の持国天と増長天は弘法大師作と伝えられる。
牛頭天王は、日本における神仏習合の神で、釈迦の生誕地祇園精舎の守護神である。薬師如来の垂迹であり、素戔嗚尊と同一神であるとされる。
この牛頭天王、ちょっとフィギュアのようだが格好いい。
その隣の十王堂には、「地蔵十王経」から信仰されるようになった十王が祀られている。
「地蔵十王経」によれば、人は死後、初七日から三十三回忌まで、10回にわたり冥府で裁かれないといけないらしい。その都度死者を裁く10人の王が十王である。有名な閻魔王は、五七忌の時に死者を裁く王である。
十王堂には、亡者の衣を剥ぐ脱衣婆も祀られているので、地蔵菩薩以外11体の像がある。
像はどう見ても新しいが、十王堂自体は宝永二年(1705年)建立である。
十王堂の隣には、津山市指定重要文化財の清瀧寺宝篋印塔がある。
延文五年(1360年)の銘がある宝篋印塔である。花崗岩製で、津山市内でも珍しい石造品であるそうだ。
宝篋印塔の隣には、護摩堂がある。
護摩堂の横に護摩行の説明板があった。護摩行について、簡にして要を尽くした説明がしてあった。
密教は、インドで仏教が滅亡する前に、ヒンズー教の要素を取り入れて成立した、仏教の最終形態である。
ゾロアスター教の火神崇拝の要素も流れ込んでいるものと思われる。
仏教の諸仏諸神からヒンズー教の神々、日本の神々まで包摂した日本の真言密教は、非常に懐の深い宗教である。言葉は悪いが、何でもありの要素がある。
そのためか、真言宗の寺院には、一種のテーマパークのようになっているところもある。
しかしそんな風に一見雑多に見える真言密教だが、神々も人々も生物も物質も、全ては宇宙そのものである大日如来から流出した大日如来の生命の一部で、全てのものは実は既に救われていて成仏しており、曼荼羅や各種の行はそれに気づくためのものである(即身成仏)、という思想で論理的に首尾一貫している。
私は信仰心が篤い方ではないが、真言密教のことを考えると、少し心が軽くなる気がする。
イスラム教によりインドでは滅んだ真言密教が、滅亡前に唐に伝わり、弘法大師が長安でその神髄を学んで日本に伝えたということを考えると、思想の伝達も一大ロマンであると感じる。