赤磐市 千光寺

 本久寺の拝観を終えて南下し、和気町から赤磐市に入る。赤磐市は、岡山市郊外のベッドタウンとなっている町である。

 赤磐市石蓮寺(しゃくれんじ)には、かつて報恩大師が建立した備前四十八寺の一つである、平満山石蓮寺があった。

 現在は石蓮寺は廃寺となっている。寺の遺構は残っておらず、かつて寺のあった場所に石造十三重層塔が建つのみである。

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石造十三重層塔

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 石造十三重層塔は、鎌倉時代の作品で、花崗岩製である。総高約6.5メートルで、石塔としては、岡山県下最大である。塔身には四方に舟形を彫って、金剛界の四仏が半浮彫にされている。

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 石造十三重層塔は、岡山県指定文化財である。
 石蓮寺は、山上にある。細い道を苦労しながら麓に下りて、赤磐市可真上にある旧可真小学校跡に行く。ここは現在は老人介護施設となっている。

 この校庭跡に建つのが、小山益太(楽山)、大久保重五郎顕彰碑である。

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小山益太・大久保重五郎顕彰碑

 岡山県と言えば、桃や葡萄といった果物で有名である。

 この二人は、岡山県の果樹園芸の発展に尽くした人物である。

 小山益太は、号を楽山といった。文久元年(1861年)に現赤磐市稗田に生まれた。東京で学んだ後帰郷し、中学校助教を経て赤坂郡役所勧業係となり、果樹栽培の道に入った。

 明治20年に職を辞した後、六々園という果樹園を経営し、果物の品種改良、病害虫防除、剪定などを独学で進め、「金桃」「六水」といった桃の新品種を創った。

 また、後進の育成にも力を入れ、岡山県果樹振興の祖と仰がれている。

 大久保重五郎は、慶應三年(1867年)に現岡山市東区瀬戸町塩納に生まれた。小山益太に果樹栽培を学び、郷里山ノ池に果樹園を開き、桃の品質改良と栽培技術の向上に努めた。新品種「白桃」「大久保」を創ったことで有名である。

 私も岡山の桃は好物である。この二人の恩恵を、私も受けていることになる。

 赤磐市可真上から南西に行くと、岡山ネオポリスと呼ばれる新興住宅街に出る。ここを過ぎた赤磐市中島に、石井原山千光寺がある。天台宗の寺院である。

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千光寺仁王門

 千光寺も、報恩大師が創建した備前四十八寺のうちの一つである。天平勝宝年間(749~757年)の開基である。

 仁王門は、天明六年(1786年)の建立である。本瓦葺の入母屋造りで、欅が黒光りして、渋みを増している。

 ここを過ぎてしばらく歩くと、岡山県指定文化財の石造方柱碑がある。

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石造方柱碑

 この石造方柱碑は、暦応三年(1340年)に、僧覚有の三十三回忌供養のために建立された。上下二つの石を継ぎ合わせ、身部上方に釈迦・文殊・普賢三尊の種子を刻み、下方に「為僧覚有三十三季暦応三庚申二月十五日」と刻まれているらしい。暦応は北朝の年号である。千光寺は北朝の影響下にあったのか。

 境内には、報恩大師を祀った大師堂があった。

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大師堂

 報恩大師は、現在の岡山市芳賀の地に生まれ、十五歳で出家、芳賀坊と名乗り、天平勝宝四年(752年)、孝謙天皇の病気平癒の祈祷を行い、その快癒により、報恩大師、魔訶上人の号を贈られた。

 千光寺は、戦国時代には荒廃していたようだ。天正十八年(1590年)に沼田村の沼田左衛門大夫、右京之進によって再興された。

 境内にある千光寺宝篋印塔は、江戸時代中期の享保十九年(1734年)の建立である。

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千光寺宝篋印塔

 花崗岩製で、笠の隅飾りが大きく外に開いている。

 本堂は、享保二十年(1735年)に火災に遭い、延享元年(1744年)に再建され、平成4年に大改修された。

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本堂

 本堂に祀られる千手千眼観世音菩薩は、秘仏とされ、三十三年に一度御開帳される。

 本堂から坂を上がると、三重塔がある。

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三重塔

 三重塔は、明和二年(1765年)の建築で、ご本尊は大日如来である。平成11年に、開創1250年を記念して改修された。

 私が史跡巡りで訪れた、6つ目の三重塔である。

 千光寺には、この他に、国指定重要文化財となっている備前焼四耳大壺がある。文安元年(1444年)の銘が入っている。

 報恩大師は、孝謙天皇の病気を平癒させた功労が認められたため、朝廷から大師の称号を贈られたが、更に何か願いがあれば叶えることを約束されたのではないか。報恩大師は、郷里の備前に仏教寺院を建立することを願い出たのだろう。四十八の寺院を建立することは、勿論私費ではできない。朝廷が後押しをしたものと思われる。

 国家の後押しの下、法道仙人、行基、報恩大師、鑑真和上といった僧侶が白鳳期から奈良時代に日本各地に寺院を建て、その土壌から最澄空海が現れたと考えると、日本の仏教も、連綿と受け継がれて進んできたのだと分かる。

 いずれ項を改めて書きたいが、日本文化は、神儒仏のバランスの上に立っていると思う。その中の仏教の諸行無常という世界観は、四季の移ろいを歌う日本文学の屋台骨になっている。

 報恩大師だけでなく、偉大な先人たちには感謝の念しかない。