西条古墳群

 兵庫県加古川市西条山手にある西条古墳群と西条廃寺は、お互い隣接している。

 西条古墳群には、元々弥生時代後期から古墳時代にかけての古墳が60数基あった。大規模な宅地造成によって、弥生時代の墳丘墓を含む多くの古墳は消滅してしまった。

 大化二年(646年)に孝徳天皇が詔した薄葬令により、古墳の造成は急激に下火となり、古墳時代は終焉を迎えた。民が貧しいのは、皇族や豪族が豪華な墓を造ることにあることを慮って、天皇が出した詔である。

 実際に日本各地の古墳を調べても、7世紀半ばより後に造られた古墳はない。「日本書紀」に書かれた薄葬令は、実際にあった出来事と思われる。

 その後、650年以降のいわゆる白鳳時代になって、各地に建築され始めたのが、寺院であった。孝徳天皇自身が仏教への信仰が厚かったことにもよろうが、各地の豪族が、古墳の造成を禁じられて、代わりに寺院を建て始めたものと見ていいだろう。

 古墳から寺院へ。加古川市西条の地は、そのことを実感できる場所である。

 西条古墳群の弥生時代の墳丘墓は、今はもうないが、弥生時代の墳丘墓である西条52号墳から発掘された内行花文鏡の複製品が、加古川市総合文化センターに展示されていた。

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内行花文鏡

 今、西条古墳群に残っている代表的な古墳は、人塚古墳、行者塚古墳、尼塚古墳の3つである。西条古墳群は、昭和48年に国指定史跡に指定された。

 人塚古墳は、5世紀半ばの古墳である。

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人塚古墳

 周囲に周濠のある、2つの造出付きの円墳である。造出とは、祭儀を行うために古墳に付けられた方形の壇である。そこに埴輪を設置し、祭儀を行ったとされる。当時は仏教がまだ伝来していないので、仏教伝来以前の何らかの死者を弔う儀式をしたものと思われる。

 行者塚古墳は、4世紀末から5世紀前半に造られた、全長約99メートルの、加古川市内最大の前方後円墳である。4つの造出が付く古墳で、円頂部と造出部から、数多くの埴輪が発掘されている。第15代応神天皇のころの古墳である。

 なかなか大きな古墳なので、全体像を写真に納めることが出来なかった。加古川市総合文化センターに、造成当時を再現した模型が展示してあった。それを見ると、イメージを掴みやすい。

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行者塚古墳の模型

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 御覧のように、三段に造りなされ、各段に埴輪が並べられている。斜面は葺石で覆われ、墳頂部と造出部には、様々な埴輪が置かれている。

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行者塚古墳

 上の写真は、前方部から後円部を写したものだが、大きくて写真には納まらない。木に覆われ、古墳の形もよく分からない。

 古墳の上には登ることが出来る。登ると古墳の大きさを実感する。

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前方部から後円部を撮影

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墳頂部

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後円部から前方部を撮影

 円頂部は広々とした空き地になっている。平成7年の発掘で、数多くの遺物が掘り出された。

 また、西造出の当時の葺石や埴輪の状態が再現されていた。葺石は凝灰岩であった。

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再現された西造出

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 このように、造出には数々の埴輪が飾られていたわけだが、発掘された埴輪は、加古川市総合文化センターに展示されている。

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家型埴輪

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囲い型埴輪

 当時の庶民は、まだまだ竪穴住居に住んでいたので、窓のついた家型埴輪は、当時の有力者が住んだ木造住宅だったろう。窓の庇や、縁側のようなものさえ付いている。

 また、家型埴輪は、囲い型埴輪の中に入っていた。当時の有力者は、塀のある住宅に住んでいたものと見える。

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楯型埴輪

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鎧型埴輪

 人型埴輪は発掘されていないが、4~5世紀の住居や鎧、髪型、服装がどんなものであったか、こうした埴輪から知ることが出来る。

 尼塚古墳は、5世紀の古墳だが、行者塚古墳よりは時代が新しいものである。

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尼塚古墳

 尼塚古墳は、全長51.5メートルの造出付円墳である。尼塚古墳からも埴輪が発掘されたそうだ。 

 行者塚古墳の模型や実物、発掘された埴輪を見ると、確かに古墳は豪勢な建造物である。孝徳天皇が造成を禁じたのも頷ける。

 古墳は当時の権力者が、自分の権威を示すために造ったものだというのが、学校で教わる古墳の紋切り型の解釈である。

 そういう面もあったと思うが、私はそれだけではないと思う。古墳築造に動員されたのは、当時の庶民だったろうが、古墳時代の庶民の名や事跡はほとんど何も残っていない。何しろ当時の文字史料が皆無である。

 「記紀」では、応神天皇の時代に文字が日本に伝わったとされているが、実際どうだったかは分からない。古墳築造には高度な測量術が必要と思われるので、ある種の数字や尺度が使われていたのは間違いないと思うが。 

 古墳時代の庶民が生きた痕跡として、現代に残っているのは、それこそ古墳ぐらいしかない。名を残すことが出来なかった当時の庶民は、子供達に「俺はあの塚のこのあたりの葺石を積んだんだ」と語ったかも知れない。

 そう思うと、古墳にも多くの人々の気持ちが詰まっていると思われて、感慨深い。