西条廃寺

 人塚古墳に隣接した北山公園内にあるのが、兵庫県指定史跡の西条廃寺である。

 7世紀後半に建設された伽藍の跡である。

 現在は、中門跡、塔跡、金堂跡、講堂跡の基壇が再現整備されている。法隆寺の伽藍配置に類似している。

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中門跡から廃寺全体を見る

 中門跡には、柱のあった場所に、コンクリート製の柱が再現されている。ここから眺めた先にある基壇の上に、塔や金堂や講堂があったことを想像するのもなかなか楽しい。

 前回の西条古墳群の記事で書いたように、大化の改新を行った孝徳天皇は、大化二年(646年)に、大規模な古墳の造営を禁止し、身分によって造る墓の大きさを決めてしまった。これによって、以後日本国内で古墳が造られることはなくなった。

 その前年、孝徳天皇は、使いを大寺(百済大寺か飛鳥寺という説がある)に遣わして、僧尼達に詔した。

 天皇はその中で、かつて群臣が仏法を謗る中、蘇我氏だけが仏教と僧尼を敬ったことを述べ、

朕、更に復(また)、正教(みのり)を崇(かた)ち、大きなる猷(のり)を光(てら)し啓(ひら)かむことを思ふ。(中略) 

凡そ天皇より伴造(とものみやっこ)に至るまでに、造る所の寺、営(つく)ること能わずは、朕皆助け作らむ。 

        岩波文庫日本書紀」第4巻孝徳天皇の条から引用

 と詔した。

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西条廃寺出土の軒丸瓦

 孝徳天皇は、自分の手で仏教を世に広め、寺院建築を援助すると宣言したのである。

 地方豪族が造営するものが、古墳から寺院へと変化したのは、孝徳天皇の方針によるものである。

 私はここで一つの仮説を立てる。

 「西条古墳群」の回で紹介したように、古墳には、祭儀を行う壇が付設されていた。ここから考えられるのは、古墳は、埋葬される豪族にとって、死後の安穏を得るための儀式を行う設備であったということである。

 そんな古墳の造営を禁止された時の、豪族たちの動揺は大変なものだったろう。

 そこで孝徳天皇は、古墳の代わりに死後の安心を得るものとして、仏教を広め、寺院を建築することを奨励したものと思われる。

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金堂跡の基壇

 ここで図らずも、わたくしは法道仙人が東播磨に寺院を建築して歩いた謎の解決案に逢着した。

 法道仙人が開基したとされる寺院の創立の年立を信じれば、法道仙人が東播磨丹波に寺院を建築しだしたのは、大化二年のすぐ後からである。法道仙人は、孝徳天皇の意を受けて、古墳造営を禁じられて動揺する地方の豪族に仏教を教え広め、寺院を建てて安心させるために、東播磨丹波地方に派遣された僧侶だったのではないか。

 法道仙人の名は、「日本書紀」には出てこない。東播磨丹波地域の各寺に残る法道仙人の伝承と、「日本書紀」の孝徳天皇に関する記述、そして古墳の形状を総合的に考証したら、上記のような仮説が浮かび上がる。

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塔跡

 歴史考証をする時に大切な視点は、その時代の人の気持ちになって考えるということである。

 科学的教育を受け、死後の世界を考えない現代人の視点で見たら、古墳造営を禁止された当時の豪族の動揺は思い浮かばないだろう。

 現代人のような教育を受けておらず、仏教も広まっていない時代の人の視点に立った時に、初めて古墳の意味が理解できると思う。

 直接の文献資料や遺物といった史料が乏しい時は、当時の人の視点から見た世界観と僅かな史料とを突合して考証すれば、ある仮設が浮かんでくる。 

 その仮説が他の史料と論理的に矛盾しなければ、その仮説は事実に近い可能性が高い。

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塔跡発掘時の写真

 西条廃寺は、孝徳天皇の時代の後の寺院跡である。この時代には、人々の心の拠り所は、仏教と寺院になっていたのだろう。

 発掘された塔跡の基壇は、瓦を重ねて作られていた。今の塔跡基壇も、発掘された白鳳時代の瓦を使って再現されている。

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再現された塔跡基壇

 塔跡には、法隆寺のような三重塔が建っていたことだろう。今は再現された基壇の上に、塔の柱を支えた礎石が据えられている。

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礎石

 加古川市総合文化センターには、発掘された、西条廃寺の塔の上にあった九輪片が展示されている。

 また、再現された九輪も展示されていた。

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九輪片

 再現された九輪はかなり高いものであった。ここには立派な塔が建っていたことだろう。

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講堂跡

 講堂跡の基壇の規模は、東西26.3メートル、南北15.6メートル、高さ0.6メートルである。

 法隆寺の大講堂が載ってもはみ出さない大きさである。

 建物はなくなっているので、かつて法隆寺の大講堂のような建物がこの上に建っていたと想像する他ない。

 今回紹介した西条廃寺は、法道仙人が開基した寺院ではないが、古墳から寺院という境目の時代背景を考証する内に、法道仙人の事績の謎に迫ることが出来た。

 とは言え、これもまた私の仮説に過ぎない。新しい史料が出てくれば、また新たな見方ができるだろう。

 だが、古代の人々の気持ちに少し触れることができたような気がする。