報恩寺 長慶寺山古墳群

 兵庫県加古川市平荘町山角にある印南山報恩寺は、真言宗の寺院である。

 元明天皇和銅六年(713年)、証賢上人の開基と伝えられる。

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報恩寺山門

 寺内には、数多くの石造遺品が残されている。寺勢が隆盛を誇っていた鎌倉時代から室町時代にかけてのものが多い。

 本堂は、二重寄棟造である。

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本堂

 ご本尊は、十一面観世音菩薩である。本堂の前には、獅子が載った石造物がある。

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獅子の載った石造物

 報恩寺には、兵庫県指定文化財となっている、「報恩寺奉加帳」3帖と「報恩寺文書」10通が残されている。奉加帳には、室町幕府6代将軍足利義教や、赤松貞村の署名があるらしい。何の奉加帳かは不明である。

 山門脇に、何故か近くの古墳から発掘された刳り貫き石棺が置いてあった。

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石棺

 古墳時代のいつごろのものか分からぬが、最近こういう古びのついた石造物に心惹かれる。

 本堂裏には、県指定文化財の報恩寺十三重塔がある。

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十三重塔

 元応元年(1319年)の銘があり、鎌倉時代後期のものである。相輪の一部は後に補修されているが、それ以外は保存状態がよく、鎌倉時代後期石造遺品の中では貴重な逸品であるらしい。

 本堂の裏手に回ると、加古川市指定文化財の四尊石仏がある。

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四尊石仏

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 この石仏は、組合式石棺の側石に四体の阿弥陀坐像を彫り出したものである。文和二年(1353年)の銘がある。14世紀にこの寺院は最盛期を迎えたのだろうか。
 更に奥に行くと、兵庫県指定文化財となっている石造五輪塔4基がある。

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石造五輪塔

 左端の塔は、応永十年(1403年)の銘がある。室町時代初期のものである。左から2番目のものは、正和五年(1316年)の銘があり、加古川市内最古の五輪塔である。左から3番目の塔は、銘文はないが、これも鎌倉時代後期のものとされている。右端のものは、貞治六年(1367年)の銘がある。
 それにしても、よくも倒れずにバランスを保っているものだ。

 次なる目的地長慶寺山古墳群に行く。加古川市上荘町薬栗にある。

 長慶寺山は、長慶寺という寺院の裏山だが、一部切り開かれ、霊園となっている。

 長慶寺山古墳群には、4世紀の前方後円墳を中心にして、7基の古墳が存在する。

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長慶寺山古墳群案内板

 6,7号墳は、霊園の中にあるが、あとは山の中である。

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6号墳

 山の中の古墳に至る径はなく、行き方が分からなかった。

 ようやく、山に入っていけそうな草木がまばらな場所を見つけ、山中に入っていった。

 1号墳は、全長34.5メートルの前方後円墳だが、木が生い茂る山の中で、古墳の形を見極めることができない。歩いていくと、それらしい円墳があった。

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長慶寺山1号墳

 長慶寺山1号墳は、昭和30年に発掘され、石室から内行花文鏡、鉄刀、鉄斧などが見つかっている。

 それらの遺品は、加古川市総合文化センターに展示されている。

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内行花文鏡

 4世紀と言えば、「謎の世紀」と呼ばれている。なぜ謎の世紀と呼ばれているかというと、3世紀の日本のことは「魏志倭人伝」に出てきて、5世紀の日本のことは「宋書」に出てくるのに、4世紀は中国の史書に出てこないからである。

 私はかねてから、中国の史書が日本の古代史を計る物差しとなっていることに疑問を持っている。そこには、戦後史学の、「『日本書紀』は信用ならんが中国の史書は信用できる」という偏見があるように思うからである。

 勿論、第三者の視点というのは、公平で客観的な要素もあるかも知れない。一方で国情をよく知らないで書いている面もあると思われる。

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長慶寺山1号墳出土品

 「日本書紀」に書かれていることが正しいとも限らない。だが発掘された物証と突き合わせて考証すれば、ある程度の事実は浮かび上がってくると思う。

 確実に言えるのは、この4世紀の古墳に、銅鏡や鉄刀などが遺体とともに埋葬されていたということである。

 前方後円墳という形式自体、大和王権が創始したものである。銅鏡は、当時貴重な祭祀の道具であり、大和王権から各地の豪族に下賜されていたものと思われる。長慶寺山1号墳に埋葬された人物も、大和王権の影響下に置かれた人だろう。

 「日本書紀」の人為的に引き延ばされた紀年を修正すれば、4世紀は、景行天皇日本武尊が日本統一のために各地を征討し、神功皇后が半島に出兵していた時代である。長慶寺山1号墳の出土品は、「日本書紀」の記述に矛盾しない。

 これが、景行天皇日本武尊の「実在」を証明することにはならないないが、その事跡に近いことを当時の大和王権が行っていたことを現わしてはいるだろう。

 いずれにしろ、文献資料が少ないもどかしさはある。ついつい銅鏡に向かって、「あなたが地上にいた時代のことを教えて下さい」と語りかけたくなった。