伝宮本武蔵宅跡から北に行くと、左手に竹山が見えてくる。武蔵の父と伝えられる平田無二斎が仕えた新免氏の居城跡のある山である。
標高430メートルの竹山であるが、山頂まで舗装路が続いている。
ZC33Sで山頂まで走った。山頂には、車を置けるスペースがあり、アンテナ塔が建っている。城の遺構らしきものは、山頂には見当たらなかった。
竹山城は、明応二年(1493年)、新免伊賀守貞重により築城された。城の東西に竹が密生していたことから、竹山城と名付けられた。
新免氏は、赤松氏の流れを汲む家で、赤松氏、浦上氏、宇喜多氏に仕え、山陰の山名氏と戦った。
貞重から三代目の宗貫の時に、関ケ原の合戦で西軍の宇喜多秀家に属したため、西軍敗戦後、廃城となった。平田無二斎は、この宗貫に剣道師範として仕えたそうだ。
山頂から北を眺めれば、岡山県最高峰の後山に連なる山々が見える。
写真右側の木にかかっているあたりが、後山である。標高1344メートルである。南側には、美作から備前に連なる山々が眺められる。
秋の清々しい風が竹山山頂を吹きめぐっていた。
さて、竹山から下りて、古い宿場町の建物が残る美作市古町に行く。
ここは、江戸時代には、鳥取と播磨を結ぶ因幡街道の宿場町だった。小原宿と呼ばれていた。
石畳の両側に水路が流れ、古い町家が軒を連ねる風情ある街並みである。小原宿の本陣の主な利用者は、鳥取藩主池田公であった。小原宿の次の宿場は、播磨国佐用郡の平福宿である。
それにしても、かつての宿場町の建物がこんなに残っている街並みは珍しい。建物には今も住民が住んでいるためか、町家を利用したカフェや雑貨屋などはなく、観光地化されていないのがいい。散策する人もまばらであった。
田中酒造場の前に、小原宿の町家の案内板があった。装飾的な袖壁や、ナマコ壁が特徴的であるそうだ。
田中酒造場は、明治18年の建築である。田中酒造場の南側には、大正ロマンの薫り漂う司法書士事務所がある。その南側には南北に長大な町家が続く。
鳥取藩主などの山陰の大名や、公家、幕府要人、高僧が宿泊した、小原宿の本陣有元家は、白壁の塀で囲まれた広大な敷地を有する建物である。
この塀の中に、廻遊式の枯山水の庭園があるらしい。内部は非公開である。
大名が出入りしたと思われる二脚門の向こうには、数寄屋造りの建物がある。
本陣の前を流れる水路は、洗い場、雪流し、防火用水として利用された。雪融けのころは、豊富な水量となることだろう。春にまた来たいと思った。
本陣は、天明三年(1783年)に類焼したという記録が残っており、今の建物は寛政年間(1789~1801年)ころに建ったものと言われている。200年前の本陣の遺構を今に残す貴重な建物である。
脇本陣は、大名や幕府要人が本陣に泊まった時、重臣たちが泊まった建物である。平常は第一級の旅籠として営業していたそうだ。
脇本陣は、文政八年(1825年)類焼後に建てられたらしい。
脇本陣の建物は、通りから建物を後退させて前庭を広く取り、玄関を通りに見せて格式を強調している。
脇本陣の北隣にも、立派な町家が並んでいる。煙り出し、虫籠窓、ナマコ壁のある典型的な小原宿の町家である。
小原宿で気に入ったのは、建物が今も住宅として使われていて、内部が公開されていないことである。
観光客はまばらだが、それ故に通りは静かで昔ながらの風情が残っている。
雪が積もるころや、春の新緑のころなどに訪れたら、また違う表情を見せてくれるだろう。