八塔寺、松本寺理性院

 岡山県備前市吉永町の北端の高原上に、八塔寺がある。

 吉永町の北部には、加賀美(鏡)、 多麻(玉)、 都留岐(剣)という、三種の神器と一致する地名が残っている。なかなか興味深いが、この地名の由来は調べてもよく分からない。八塔寺は、加賀美地区にある。

 八塔寺周辺は、茅葺屋根の農家が点在して里山の面影を残しており、「八塔寺ふるさと村」と呼ばれている。映画「黒い雨」、ドラマ「八ツ墓村」「火垂るの墓」のロケ地になった。

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塔寺ふるさと村の風景

 私が訪れた時期は、丁度稲刈り前で、黄金色の稲穂と茅葺屋根が懐かしい風景を形作っていた。

 八塔寺は、聖武天皇の勅願により、神亀五年(728年)、鑑真和上若しくは弓削道鏡によって開基されたと伝えられる。

 行基菩薩作の十一面観世音菩薩像をご本尊として祀った。

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塔寺本堂

 八塔寺は、仏教への理解が厚い和気清麻呂公一族の庇護を受け、多くの高野聖が集まり、「西の高野山」と呼ばれた。

 鎌倉時代には、鎌倉幕府の庇護を受け、最盛期には十三重塔や8院64坊72寺が立ち並ぶ一大山上伽藍となった。

 南北朝時代に兵火で焼失し衰退したが、江戸時代に入り、池田光政、綱政が再建した。

 今でも、境内には光政寄進の梵鐘がある。

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塔寺境内

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池田光政寄進の梵鐘

 光政の子、綱政は、宝永三年(1706年)、八塔寺の本堂と三重塔を再建した。

 しかし、寛政二年(1790年)の大火で本堂と三重塔は焼けてしまい、その後本堂のみが再建され、現在に至っている。

 三重塔が建っていた場所には、1.6メートル間隔で据えられた四天柱の礎石だけが残っている。

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三重塔礎石

 礎石の間隔からして、実に小さな三重塔であったと分かる。

 さて、何度も焼失した八塔寺だが、ご本尊の十一面観世音菩薩像は焼失を免れていた。天保三年(1832年)、中興の祖・妙道上人により、八塔寺は、十一面観世音菩薩像を祀る天台宗「照鏡山八塔寺」と、定朝作の不動明王像を祀る真言宗「恵日山高顕寺」とに別れ、二宗別山経営することになり、現在に至っている。

 高顕寺は、八塔寺の西隣にある。

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高顕寺

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高顕寺本堂

 八塔寺周辺には人影がなく、稲穂の上を暖かい風が渡るだけであった。

 八塔寺から南下し、備前市吉永町南方の松本寺理性院(しょうほんじりしょういん)に至る。

 ここは高野山真言宗の寺院である。

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松本寺山門

 松本寺は、天平元年(729年)に行基菩薩が開基し、天文年間(1532~1555年)に現在地に移転したとされる。

 本堂は、享保十一年(1726年)に再建されたものである。

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松本寺本堂

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本堂軒下の彫刻

 ご本尊の薬師如来像は、岡山県指定重要文化財である。

 私が本堂前で拝礼を済ますと、丁度本堂の窓から私を認めた住職がお声をかけて下さった。住職は、壮年の穏やかな表情をした方だった。

 「こんにちは。どちらからおいでですか。折角ですから、本堂の中をご案内します」

 私は、恐悦しながら、住職に従って本堂に入った。

 本堂内部は、薬師如来像を祀る厨子の入った須弥壇が中心にあり、その前に住職がお勤めをする際に用いる修法壇が置かれている。

 お勤めの際に、護摩が焚かれることがあるためか、堂内は黒々と寂びた色をしている。300年間、護摩の煙を吸い続けた堂内である。

 内陣の天井には、剥落しているが、巨大な龍が描かれている。また、内陣と外部を区切る戸には、鮮やかに彩色された十二神将図が描かれている。

 中でも一際目を惹くのは、須弥壇の下に蹲る、黒光りした巨大な獅子の木像である。

 須弥壇を前にした内陣の中で、住職と私は語り合った。

住職「この十二神将図は、剥落していたのですが、最近元の彩色を施して復元しました。十二神将は仏を守護するインドの神様です。神社やお寺がお好きなのですか」

私「ええ、よく回ります。実は私の家も真言宗なのです。ここは高野山真言宗ですか。真言宗は本山によって何か違いがあるのですか」

住職「真言宗には十八本山がありますが、大きな違いはありません。関東の方に多い智積院を本山とする教えは、教理の深いところで少し違いがありますが、毎年東寺で行われる後七日御修法(真言宗僧侶が天皇と国家の安寧を祈る儀式)は、十八本山の僧侶が皆集まって行います。戦後は天皇が特定の宗教に関わらないということになりましたが、後七日御修法には、今でも天皇の名代として宮内庁から勅使が来られます」

私「この獅子の像は、建築当時からのものなのですか」

住職「そうです。須弥壇には、薬師如来像が祀っていますが、秘仏で30年に一度御開帳されます。修法壇は、享保の時代にこの内陣に合わせて作られたものを、最近修復して使うようになりました。やはり、当時作られたものの方が、このお堂に合います」

私「境内に宝篋印塔がありますが、あれはどんないわれがあるのですか」

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宝篋印塔

住職「江戸時代に六十六州廻国巡りをしていた行者がいました。日本中の寺院を巡っていた廻国行者が、ここにも立ち寄られ、宝篋印塔を奉納していったようです。境内にある手水鉢や灯篭も、廻国行者が寄進したものです」

 途中で住職が語った言葉が記憶に残った。

 「大事に受け継がれてきたお寺ですから、これからも大事に受け継いでいきたい」

 私は住職に礼を言って本堂を出た。住職の言葉を聞いて、宗派は違うが、伝教大師最澄が語った「一隅を照らす」という言葉に思い至った。

 それぞれの日本人が、それぞれの場所でそれぞれの務めを果たし、この国の文化を受け継いでいく。自分がちゃんと務めを果たせているとはとても思えないが、そうありたいものだと思った。