守福寺宝殿

 葦守八幡宮から約500メートル東に行った岡山市北区下足守の山麓に、守福寺宝殿という国指定重要文化財となっている石造物がある。

 守福寺の手前までは舗装路がある。舗装路がなくなる手前に車をとめて歩くと、崩れた築地塀が見えてくる。

守福寺の築地塀

 守福寺は既に廃寺となっていて、建物も倒壊している。境内は、竹や雑木が生えて荒廃している。

 境内の入口に六体地蔵がある。

六体地蔵

 この六体地蔵が、かつてここに寺があったことを教えてくれる。

 守福寺は、臨済宗の寺院であったらしい。

 六体地蔵を過ぎると、すぐに鳥居があり、その奥にある守福寺宝殿が見えてくる。

王子宮の鳥居

 鳥居の扁額には、「王子宮」と刻んである。かつて守福寺の裏山中腹に、王子権現が祀られていたそうだ。

 守福寺宝殿は、元は王子権現のお堂であったらしい。いつのころか分からぬが、山中からこの場所に移されたのだろう。

鳥居脇の石仏

 守福寺宝殿は、石造の祠である。一見すると、とてもこれが国指定重要文化財であると思えない簡素な祠である。

守福寺宝殿

 守福寺宝殿は、正面に簡素な方柱を立てて庇を支えている。正面は春日造である。

 向拝の方柱のうち、向かって右の柱に、「暦応元年(1338年)十一月廿二日」、左の柱に「王子」と刻んであるという。

守福寺宝殿

 背面は寄棟造になっている。

 木造建築物を髣髴とさせる巧みな細工をした石造物である。

 なるほど、よくよく眺めると、味わいのある石造物である。

 守福寺の境内は荒廃していて、かつてあった寺院の建物が倒壊し、屋根が残っていたり、屋根瓦が散乱したりしている。

守福寺の境内

倒壊した建物の屋根

 境内に残されているのは、石仏や石造の鳥居、石造の守福寺宝殿など、石造物ばかりである。

境内に残された石仏

 地表にあるもので、最も年月の経過に耐え得るものは石である。土は崩れ、木や金属は腐食してしまう。

 人類が築いた石造物は、人類が滅んだ後もしばらくは地表に残っているだろう。

 仏教は諸行無常を説くが、その仏教の教えを弘めるための寺も、諸行無常の習いを免れることは出来ない。

 常住のものはこの世界にはない。人の一生もそうである。朽ちた廃寺の境内に佇んで、定めなき世の定めを思った。

葦守八幡宮 

 最上稲荷の参拝を終えて、次なる目的地である葦守八幡宮に詣でた。岡山市北区足守に鎮座する。

 この神社の参道の始まりにある石造の両部鳥居は、在銘の鳥居としては、岡山県下最古である。

葦守八幡宮の石造鳥居

 両部鳥居というのは、鳥居の両足に稚児柱が付いているものである。

 石造の両部鳥居というものは珍しい。

稚児柱

 両部は、密教で言う金胎両部のことで、智の世界である金剛界と理の世界である胎蔵界を指す。

 両部鳥居は、神仏習合の名残である。

葦守八幡宮石造鳥居の背面

 葦守八幡宮の両部鳥居には、康安元年(1361年)の銘がある。南北朝の争乱期に建てられたものである。その時代から、ここに建ち続けている。

 この鳥居は、当時の石造両部鳥居を伝える貴重な遺構として、国指定重要文化財となっている。

 さて、鳥居を潜ると、葦守八幡宮のある丘に向かって真っすぐ参道が延びている。

参道

 この参道を直進すると、二の鳥居がある。

二の鳥居

 二の鳥居の先に、葦守八幡宮が鎮座する丘がある。

葦守八幡宮が鎮座する丘

 石段を登り、随身門を潜ると、瓦葺の立派な拝殿が見えてくる。

随身

拝殿

 葦守八幡宮は、第15代応神天皇の皇妃兄媛(えひめ)命の郷里に建つ神社である。

 応神天皇二十二年に、天皇は、淡路島、小豆島を経て吉備に上陸し、皇妃の郷である足守に臨幸した。ここはその時の行宮の跡である。

 兄媛命の兄・御友別(みともわけ)命と、御友別命の子、稲速別(いなはやわけ)、仲彦、弟彦が天皇をもてなした。

拝殿

 天皇は、御友別命の饗応に感心し、子の三兄弟に吉備の地を分け与えた。

 天皇の没後、御友別命の次男仲彦は、天皇の人徳を追慕し、天皇の神霊を行宮跡に斎き祀った。

 これが葦守八幡宮の創建である。

拝殿の唐破風

蟇股の彫刻

 平安時代末の「足守庄絵図」には、八幡社が描かれているという。

 宝永三年(1706年)に旧本殿が建設されたが、文久三年(1863年)に発生した火災で焼失した。

 拝殿幣殿は、慶応二年(1866年)に、本殿は明治3年に再建された。

幣殿と本殿

 祭神は、応神天皇、兄媛命、神功皇后などである。

本殿

本殿

手挟みの彫刻

本殿正面扉の彫刻

 葦守八幡宮に伝わる神宝として、岡山県指定文化財の木瀬浄阿弥作円鏡がある。

 慶長十二年(1607年)に豊臣秀頼が寄進したものであるらしい。

宝庫

 本殿の脇に、謎の石造物があった。

謎の石造物

 亀の上に植物が載ったような石造物だ。いつ、何のために造られたものなのだろう。

 ところで、最近小豆島の史跡巡りをして、応神天皇が小豆島に行幸した伝承を知った。

 小豆島には、応神天皇を偲ぶ史跡が残っている。

 天皇は、小豆島から吉備に上陸して、この地に行幸した。

 私は、丁度応神天皇の足跡を辿って葦守八幡宮に詣でたことになる。

 こうして応神天皇の足跡を辿ると、天皇が実際に活動していたという実感が湧く。

 歴史上の一時代を追懐しながら旅をするのは、いいものである。 

最上稲荷 その8

 八畳岩の見学を終え、龍王山山頂にある最上稲荷の奥之院を目指した。

 登っていくと、鳥居の手前の平坦な広場に出た。

鳥居前の広場

 この広場やその付近には、昭和14年に建てられたラジオ塔と、昭和4年から昭和19年まで営業していた、中国稲荷山鋼索鉄道(ケーブルカー)の奥ノ院駅跡がある。

ラジオ塔

 ラジオの放送が始まったのは、大正14年である。およそ100年前だ。当時ラジオは高級品であった。 

 全国に約450基のラジオ塔が建てられたが、現存するものは20基ほどであるらしい。龍王山のラジオ塔は、その内の1基である。

中国稲荷山鋼索鉄道 奥ノ院駅跡

中国稲荷山鋼索鉄道の当時の写真

 中国稲荷山鋼索鉄道は、旧本殿付近にあった山下駅からこの奥ノ院駅までを4分で結び、20分間隔で運行されていた。

 ケーブルカーが運行していた当時は、先ほどの広場には、シーソーやブランコなどの遊具や、うどんなどを販売する茶店があり、参拝客が楽しめる場所だったようだ。

 大東亜戦争の戦局が差し迫った昭和19年廃線となり、レールは軍需資材に転用された。

 さて、広場の奥にある鳥居を潜り、奥之院の霊域に入る。

奥之院の一の鳥居

 奥之院は、正式名称を稲荷山奥之院一乗寺という。最上稲荷の最奥にある霊域である。

 奥之院までは、いくつか鳥居がある。扁額に龍王山と刻まれた鳥居を潜ると、「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石が参道の左右に並んでいる場所に出る。

龍王山の鳥居

題目石

 稲荷信仰では、お塚というものを築く。京都の伏見稲荷の背後の稲荷山にも、神様の名を刻んだ塚が無数に祀られている。

 私が過去に読んだ稲荷信仰に関する本には、お塚は、神霊の世界とこの世界を結ぶ出入口であると書いてあった。神の使いの白狐も、お塚を通ってあの世とこの世を出入りするのだろう。

 稲荷の信者は、自分に関連するお塚に参拝するのだそうだ。

備前焼の狐の像

 最上稲荷の題目石にも、伏見稲荷のお塚と同じような役割があるのだろうか。

 さて、題目石の間を通り、荒瀧天王と扁額に刻まれた鳥居を潜ると、奥之院の境内に至る。

題目石の間の参道

荒瀧天王の鳥居

奥之院の境内

 奥之院の境内の最も高い場所は、龍王山の山頂であるが、その下に立派なお堂がある。最上三神を祀るお堂であろう。

奥之院のお堂

お堂の鬼瓦

 お堂は新しいが立派なもので、蟇股や虹梁の彫刻も見事である。

蟇股の彫刻

虹梁の彫刻

木鼻の彫刻

 お堂の中には、厨子がある。この中に、最上位経王大菩薩か八大龍王尊の像が祀られているのだろう。

お堂内陣の厨子

 龍王山の頂上には、数々の題目石が祀られている。

龍王山の頂上への石段

獅子の石像

頂上付近の題目石

 最高所には、最上位経王大菩薩と八大龍王尊の題目石が建っている。

最上位経王大菩薩(左)と八大龍王尊(右)の題目石

最上位経王大菩薩の題目石

八大龍王尊の題目石

 題目石には、「南無妙法蓮華経」のお題目が必ず中央に彫られている。神名よりも、お題目が主役である。

 最上稲荷の神々は、無明の世界に迷う衆生を教え導くため、「法華経」の中で久遠実成の釈迦如来が説く悟りの世界から現れ、方便を使って衆生の願いを叶えてくれる。

 だが、衆生が悟りの世界に入ってしまえば、元々実体の無いものが、実体の無い願い事を、実体の無いものに対して願っていたことが明らかになる。

 そこは、始まりもなければ終わりもない、原因も結果もない、何もない世界である。

 だが衆生が迷っている間は、妄念を因として、何もない世界に何かがあるように見える。

 衆生に迷いがある限り、仏は方便を使って、衆生を導き続けるということだろう。

最上稲荷 その7

 本滝の見学を終えて、更に龍王山を登っていく。

 途中、赤鳥居があり、ここから聖域が始まるような雰囲気を漂わせている。

参道途中の赤鳥居

 赤鳥居を過ぎて、参道を奥之院目指して登っていく。

 すると、高く聳える巨石群が見えてくる。題目岩のある巨石群である。

 その下に白瀧天王の祠がある。

巨石群と白瀧天王

 白瀧天王の背後にある巨石群は、巨大な花崗岩が幾重にも積み重なったもので、見るものを圧倒する。

巨石群

 巨石群の上に、お題目が刻まれた題目岩と、「法華経」の守護神・鬼子母神を彫った岩がある。

 そこまで上がって行く細い道がある。

題目岩までの道

 登っていくと、間近で鬼子母神と題目岩を見ることが出来る。題目岩は、高さ8メートルの巨岩である。

題目岩と鬼子母神

鬼子母神

題目岩

 お題目とは、「南無妙法蓮華経」のことを指す。日蓮宗では、「法華経」というテキストを、衆生を救う唯一の経典として敬っている。

 「南無妙法蓮華経」とは、「妙法蓮華経法華経)」に帰依するという意味である。

 「法華経」で説法しているのは、釈迦であるが、これは歴史上実在の人物である釈迦ではなく、久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦如来であるとされている。

 久遠実成の釈迦如来とは、遥か過去に悟りを開き、遥か未来まで存在する永劫不滅の存在で、言わば悟りの本体である。

 歴史上の釈迦は、この久遠実成の釈迦如来が、人前に現れた姿だという。

 鳩摩羅什が漢訳した「法華経」は、名文である。久遠実成の釈迦如来が語った教えと言われても納得してしまうような、文学的躍動感に溢れている。

 日蓮は行動的な人だったが、名文は人を行動的にさせる。

 さて、題目岩を過ぎて参道を更に登ると、奥之院と八畳岩との分岐点に来た。

奥之院と八畳岩との分岐点

 私は左の八畳岩に向かった。

 八畳岩は、天平勝宝四年(752年)に、開山報恩大師が、孝謙天皇の病気平癒を祈るために訪れ、本尊最上位経王大菩薩を感得した霊地である。

八畳岩

 報恩大師は、八畳岩の下の霊窟に籠り、「法華経」の中の「観音菩薩普門品」を唱え続けたという。

 唱え続けて21日目の早朝に、最上位経王大菩薩を感得し、その姿を自ら刻み、祈願を続けた。

 すると天皇の病はたちまち癒えたそうだ。

八畳岩の霊窟

 報恩大師が刻んだ最上位経王大菩薩の像は、最上稲荷の本尊となったが、天正十年(1582年)の秀吉の備中高松城攻めに際して最上稲荷が全焼した際、本殿からこの霊窟に移されたという。

 江戸時代になって、最上稲荷が再建されるまで、本尊はこの霊窟に祀られていた。

 ここからは、備中高松城を含む高松地区がよく見える。

八畳岩から眺める高松地区

 ここから見える平地は、秀吉の備中高松城水攻めに際し、水没した。

 最上位経王大菩薩は、眼下に繰り広げられた人間同士の殺戮の様相を、どのようなお気持ちで眺めたことだろう。

最上稲荷 その6

 旧本殿霊応殿のある場所から、背後の龍王山に登る参道が始まる。

龍王山への参道

 この先は、急な階段が続く。

 龍王山中腹にある八畳岩は、開基報恩大師が本尊最上位経王大菩薩を感得した場所である。

 言わば、最上稲荷の始まりの場所である。

 龍王山こそ、最上稲荷の核心とも言える。

 私は、この参道ではなく、洗心閣別名荒行堂と呼ばれる建物を経由するコースを行った。

洗心閣前の川に架かる橋

 川に架かる赤い橋を越えたところに洗心閣がある。新しい建物であった。

洗心閣

洗心閣内部

 洗心閣の内部には、祭壇のようなものがある。祀られているのは、最上三神であろうか。 

 祭壇の前に僧侶の座があるが、その上に紙垂が垂れている。神仏習合の空間である。

 また、洗心閣の隣には、荒行堂の入口がある。ここでどんな荒行が行われているのか、興味が湧く。

荒行堂の入口

 洗心閣の近くに池があるが、その池には八大龍王尊が祀られている。

 「八大龍王」と刻まれた題目石の背後に小さな祠があり、その背後に池がある。

 池には、八大龍王尊の像が立ってこちらを見つめている。

八大龍王と刻んだ題目石

池に立つ八大龍王尊像

 水は全ての生命の源である。水を司る八大龍王の神威のおかげを、皆が享受しているといってもいいだろう。

 さて、洗心閣から龍王山に向かって歩くと、本滝という滝行をする場所がある。

本滝

 龍の銅像の口から出てくる水に打たれるという仕掛けである。

 滝の側には誦経堂がある。ここで経を唱えてから滝に打たれるか、滝に打たれてから経を唱えるかするのだろう。

誦経堂

誦経堂内部

 誦経堂の看板には、「ご自由にお参りしてご修行下さい」と書いている。最上稲荷の僧侶でなくとも、ここでは修業が出来るらしい。

 脱衣場もあって、確かに誰でも修行出来そうだ。

脱衣場

 ところで滝行というものは、日本にしか存在しない。山岳信仰の中から出てきたもので、滝自体への崇敬から行われるようになった修行法である。

 「古事記」に書いてある禊とも関連があるだろう。

 日本では、古くから清水を神聖なものとして扱ってきた。その神聖な水に浸かることで、心身を清めることが出来ると信じられてきた。

 日本の原初的信仰のベースには、具体的な自然物への崇敬がある。日本の風土の中を生きるだけで、日本的信仰生活を送っていると言える。

最上稲荷 その5

 七十七末社が祀られているエリアの中心に、旧本殿の霊応殿が鎮座する。

霊応殿

 霊応殿は、最上稲荷で最古の建造物である。

 寛保元年(1741年)に、妙教寺七世日道聖人によって再建された。

 奥から順に、本殿、誦経堂、拝殿、前堂の四棟から成っている。

前堂

前堂の彫刻

前堂の天井

 四棟とも総欅造りで屋根は檜皮葺である。

 前堂は、拝殿の長い向拝のようなものである。

拝殿

拝殿の屋根

 拝殿と誦経堂の間は一体化している。

 神社建築の拝殿があると同時に、本尊に経を上げる誦経堂を有しているのが、神仏習合の寺院らしい。

拝殿、誦経堂から本殿にかけて

誦経堂

 誦経堂には、華頭窓があり、寺院建築であることが分かる。

 誦経堂の前面の天井は折り上げ格天井になっている。格式の高い空間である。

 「最上位」と書かれた扁額の周囲は、麒麟の微細な彫刻が施されている。

誦経堂の前面

折り上げ格天井

扁額と麒麟の彫刻

 また誦経堂前面の戸にも、印象的な彫刻が施されている。

誦経堂前面の戸の彫刻

 霊応殿本殿は、播州赤穂木津村の大工野村家慶、野村家規を棟梁として建築された。木津大工の作例の一つである。

 霊応殿に伝わる棟札にもその旨が書いている。野村家に伝わる文書にも、本殿建築の次第が書いてあるそうだ。

本殿

 本殿は、内外共に三間仏堂の様式を持っており、寺院内の稲荷社という要求を満たした建物であるという。

 霊応殿は、昭和49年に曳屋工法により現在地に移築された。以前は、現本殿の霊光殿がある場所に建っていたのだろう。

 旧本殿の霊応殿は、岡山市指定重要文化財となっている。

 さて、霊応殿の周囲を、七十七末社の祠が取り囲んでいる。

霊応殿を囲む七十七末社

 霊応殿を囲む七十七末社は、いずれも立派な祠に祀られている。

 この中に、七十七末社中の四天王と呼ばれる、羽弥御崎(はやみさき)天王、荒熊天王、日車(ひぐるま)天王、大僧正天王の四社がある。

羽弥御崎天王

 羽弥御崎天王のご威徳は商業で、商売繁盛の願いを満たしてくれるそうだ。

 虹梁や尾垂木の彫刻が見事で、国登録有形文化財である。

 荒熊天王のご威徳は軍事で、勝負必勝、武道向上の願いを叶えてくれる。

荒熊天王

 こちらも蟇股や虹梁の彫刻が見事である。国登録有形文化財である。

 因みに、国登録有形文化財となっている末社は、全部で20社あるが、全てを紹介することは出来ない。

 大僧正天王のご威徳は火難で、火難消除の願いを叶えてくれる。消防士は、この末社を参拝するといいのではないか。

大僧正天王

 四天王の最後に紹介する日車天王のご威徳は、文学(学問)で、学業成就の願いを叶えてくれるらしい。

 さすがにここは参拝者が多く、写真を撮るために近づくのに手間がかかった。

日車天王

 日車天王の建物も、国登録有形文化財である。

 ずらりと並ぶ末社群を見ると、人の望みや願いには際限がなく、娑婆世界には人々の欲望が渦巻いているのを実感する。

 昨日の記事にも書いたが、人間の生存本能を無くすことは出来ない。欲は人を苦しめると同時に、人を前に進める強力な力を持っている。

 願掛けをする多くの参拝客を見て、むしろこちらも元気をもらうような、頼もしい気持ちになった。

最上稲荷 その4

 本殿(霊光殿)の東側には、宝光閣という建物がある。

 和風建築だが、建物の下を煉瓦アーチ橋が支えていて、その下を道路が通っている。

宝光閣

宝光閣の下部の煉瓦アーチ橋

宝光閣

 和風建築と煉瓦の組み合わせは、いかにも明治らしい。

 大客殿から宝光閣、本殿の間は、木造の渡り廊下がつないでいる。

 宝光閣と渡り廊下は、国登録有形文化財である。

渡り廊下

 さて、ここまで本尊である最上位経王大菩薩を祀る本殿や、一塔両尊四士を祀る根本大堂などを見てきた。

 ここまでは、言わば最上稲荷の表の顔である。本殿の裏側から始まる七十七末社を祀るエリアからが、最上稲荷の本領が発揮されるエリアである。

七十七末社の説明板

 七十七末社には、最上位経王大菩薩にお仕えして、縁結びや縁切り、厄除けなどの役割を担い、衆生を救済するために活動する七十七の神様が祀られている。

 七十七末社に祀られる神様は、それぞれ天王と呼ばれ、最正位という位が付いている。

 稲荷神と習合した最上位経王大菩薩にお仕えする神様となると、白狐であろう。

七十七末社

 七十七末社は、小祠に祀られているのもあれば、題目石という、「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ石の形で祀られているものもある。こちらは稲荷信仰でお塚と呼ばれるものと同じであろう。

題目石

 七十七末社の前には、その末社のご威徳が書かれたプレートが備え付けられている。

 例えば、七十七末社の第77番の最正位福崎天王のご威徳は、抽籤(くじびき)で、勝負事を司っている。

第77番 最正位福崎天王

ご威徳を書いたプレート

 龍王山側に行くと、題目石の形で祀られた末社がずらりと並んでいる。

 それぞれの末社のご威徳にあやかろうと、数多くの参拝客が末社に線香を上げて祈りを捧げている。

題目石の末社

 確かに、個々に分かり易くご威徳が定めてあると、お参りする方もお参りしやすい。

 言葉は悪いかもしれないが、さながら願い事のATMだ。自分の願い事を叶えてくれる末社を何度も訪ねる参拝客も多いだろう。

 私は、一つ一つの末社のご威徳を見ながら通り過ぎた。

雪法天王、光仲天王、人走天王

 上の写真の題目石には、雪法(きよのり)天王、光仲(みつなか)天王、人走(ひとはせ)天王の3つの末社が祀られている。

 雪法天王のご威徳は美麗で、美人成就の願いを叶え、光仲天王のご威徳は仲裁(なかなおり)で、仲裁成就の願いを叶え、人走天王のご威徳は逃走(はしりびと)で、尋ね人を見つけてくれるそうだ。

 ある人は、疑問に思うかもしれない。最上稲荷は仏教寺院である。本尊最上位経王大菩薩の本体である「法華経」は、この世界に存在すると思われるものは、全て実体がないという一切皆空の教えを説いている。

 衆生の欲望や願い事は、いかにもこの一切皆空に反している。それなのに、なぜ最上稲荷は、人々の願い事を叶えようとするのだろう。

 「法華経」には、方便という言葉が何度も出てくる。巧妙な手段という意味で用いられる。

 人々の能力には個人差がある。覚りの世界にすぐに入ることが出来る人もいれば、そうでない人もいる。仏は、人々の個々の特性に合わせて、様々な方便を用いて教えを説き、最終的に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という最上の覚りの世界に導く。

 「法華経」第三品の「譬喩品」には、仏の方便の用い方を譬喩を用いて説いている。

 ある豪邸が火災になった時に、火に気が付かずに邸の中で遊び戯れる子供達を外に逃がすために、豪邸の長者が、子供達に門の外に並べた牛車、鹿車、羊車という乗り物の玩具を示しておびき出す。

 子供達は喜んで外に出る。長者は、外に出てきた子供達に対し、最初に示した玩具ではなく、邸宅内からは見えなくらい大きな最高の乗り物を見せる。子供たちは歓喜してその乗り物に乗る。

 火災に遭った豪邸(火宅)は、我々の人生の譬えである。いつか終わる人生の中で遊び戯れていても、最後は焼け死んでしまう。

 仏は、火宅から人々を救い出すために、分かり易い教えで人々を誘い出す。そして最後に最高の教えを説いて、人々を覚りの世界に導くのである。

 最上稲荷末社が叶える人々の願いも、譬喩品で説く玩具のようなものであろう。

 最上稲荷の境内は、「法華経」の世界を具現化していると言っていい。私が七十七末社最上稲荷の本領と言ったのは、そのためである。

 さて、七十七末社の中央には、縁の末社がある。

縁の末社

 ここには、縁結びをご威徳とする縁引天王と、離縁をご威徳とする離別天王を並べて祀ってある。

縁引天王(右)と離別天王(左)

 良縁を得たい人は、先ず離別天王にお参りして悪縁を絶ち、次に縁引天王にお参りして良縁を結ぶのがよいという。

縁結絵馬

縁切札

 縁引天王の参拝者は、縁結絵馬に願い事を書いて、良縁撫で石の前で願い事を念じ、良縁撫で石を反時計回りで一周して、左手で石を撫でる。

良縁撫で石

 離別天王の参拝者は、縁切札に願い事を書いて、縁切撫で石の前で願い事を念じて縁切札を2つに引き裂き、縁切撫で石を時計回りに一周して、右手で縁切撫で石を撫でる。

縁切撫で石

 そうすれば、それぞれの願いが叶うという。

 ちなみに離別天王が離別してくれるのは、人との縁だけでなく、病気や煙草、賭け事癖もあるという。自分の嫌なところと離別したい人も、ここに参ればいいだろう。

縁の末社のお塚

 縁の末社の隣には、本殿に祀られる三面大黒尊天を勧請した三面大黒堂(金運堂)がある。

三面大黒堂

 三面大黒堂を巡る水盤には、報恩大師の開基以来の歴史を有する厳開明王池から移した霊石を納めていて、この水盤に浸したものを浄化するという。

 三面大黒堂に祀られる三面大黒尊天は、正面に大黒天、向かって左に毘沙門天、向かって右に弁財天のお顔を持っている。

 三面とも金運成就のご威徳をお持ちであるが、大黒天は商売繁盛、毘沙門天は必勝成就、弁財天は恋愛成就のご威徳をお持ちであるらしい。

三面大黒尊天の絵馬

 三面大黒尊天をお参りすれば、まさにいいことづくめである。

 仏陀は、この世が縁起から成り立っていることを覚った。縁起とは、この世界の全てのものが、相互に補完しあった関係性の中にあり、独立して存在するものはないという意味である。

 例えば私の体は、私が日々摂っている水と食料から出来ている。私の周りを包む空気と気圧がなければ、体を維持することも出来ない。水と食料と空気がない中で、私の体を維持するのは不可能である。そうとすれば、私の体というものは、この宇宙に独立して存在しているのではないことになる。

 縁起の法則からすれば、全てのものは、他のものとの縁の中で仮に和合してあるに過ぎない。縁は時間と共に変化するので、仮に和合してあるものは変化して、一秒たりとも同じ存在ではない。これが諸行無常である。

 諸行無常であるが故に、全ての存在に我という実体はない。諸法無我である。諸法無我であることを実感すれば、我執を離れ、涅槃寂静の世界に入る。

 この諸行無常諸法無我涅槃寂静を仏法の三法印という。この三法印が、仏教の核心である。

 そうとすれば、我々が我(自分)だと思っているものの正体が明らかになる。それは単に自分の生命や仲間達の生命を維持し、子孫を残し、繁栄したいという生物としての本能に他ならない。

 ところが、仏教がいくら諸法無我を唱えても、生身の生き物である我々が、生物としての本能を失うことは出来ない。

 覚りの世界に安住して、社会維持のために働かないという出家者のような生活を、人類全体がとることは出来ない。

 だが、より良く生きたいという願望がある限り、それが叶えられない苦しみは続く。

 「法華経」が説いた菩薩道は、この世界が虚妄であると理解しながら、苦しむ人々のために社会に働きかけ続けることである。

 最上稲荷の七十七末社は、その菩薩道を示しておられるのだろう。