二老山和田寺

 丹波立杭登窯から北上し、丹波篠山市下小野原にある天台宗の寺院、二老山和田寺(わでんじ)に行く。

 この寺は、標高591メートルの和田寺山の麓から中腹にかけて建っている。

 和田寺口の交差点から坂を上っていくと、仁王門が見えてくる。

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仁王門

 この仁王門の中に立つ仁王尊金剛力士像が、なかなかの力作であった。

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阿形像

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吽形像

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 魁偉な表情、厚く筋肉質な胸部。力強い造形である。国指定重要文化財かと思いきや、丹波篠山市指定文化財だった。

 様式から鎌倉時代の作と言われているが、何度も修理され、そのたびに各部が入れ替えられているために、国の重文にはならなかったのだろう。

 それでも良いものを拝観出来た。思わず手を合わせて拝む。

 仁王門から坂を上がっていくと、客殿がある。

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客殿

 客殿前の砂利の駐車スペースの周囲には、牡丹桜が見事に咲いていた。

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牡丹桜

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 和田寺は、大化二年(646年)に法道仙人が開基したと伝えられる古刹である。

 当初は、和田寺山の山頂に建てられ、日照山東光寺と称していたが、寿永三年(1184年)に源義経軍が三草山の平氏軍を討伐した際に焼失したという。

 翌文治元年(1185年)、播州清水寺の僧・二臈理円(にろうりえん)が再建し、二臈山東光寺と改称した。

 嘉慶三年(1389年)、僧・良海が堂塔を現在地に移し、明徳三年(1392年)、二臈(老)山和田寺と改称して、播州清水寺の末寺となった。

 客殿の前には、勘助地蔵というお地蔵さまが祀られている。

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勘助地蔵のお堂

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勘助地蔵(中央の像)

 8代将軍吉宗の時代、西日本一帯を大飢饉が襲い、各地で餓死者が続出した。現在の兵庫県三田市藍本の地に、森鼻勘助という人物がいた。動作俊敏で俊足の持ち主の勘助は、世を憂いて義賊となり、富者から盗んだ金品を衣食に苦しむ農民に与えた。

 しかし晩年足腰の病にかかり、床に臥す日々が続いた。ある日、勘助の夢にお地蔵様が出てきて、「われは今、裏山の土中に埋もれる地蔵なり。直ちに掘り起こして祀れば、汝の病を直さん」と告げた。

 延享元年(1744年)、勘助が小野原の地蔵谷から地蔵を発掘し、盛大に法要を催すと、たちまち病は癒えた。これが勘助地蔵の由来である。

 明治末年には、地元住民から、足腰の病や疣を直すお地蔵さまとして信仰を集め、昭和に入って和田寺に移されたという。

 私も思わず手を合わせた。

 さて、勘助地蔵参拝後、客殿から本殿までの参道を上っていった。

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本堂への参道

 参道の両側には杉が鬱蒼と茂っている。なかなかいい雰囲気だ。

 参道の途中に、頭痛地蔵と呼ばれる地蔵板碑が建っている。

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地蔵板碑

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 この地蔵板碑は、頭部が欠損している。それが、頭痛地蔵と呼ばれる所以である。

 この地蔵板碑には、文和四年(1355年)の銘が刻まれている。和田寺が東光寺と呼ばれていた時代から残る貴重な遺物である。

 宝塚市波豆(はず)地域の石工により造立されたものと推定されているらしい。地蔵板碑は、兵庫県指定重要文化財である。

 地蔵板碑から参道を上ると、突き当りに本堂がある。印象的な石段を登ると、本堂前に出る。

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本堂

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 本堂は寺伝では桃山時代の建立とされているが、様式的には江戸時代後期に建てられたものと推定されている。

 本尊は千手観音菩薩立像で、厨子と共に丹波篠山市指定文化財となっている。

 昭和の修理の際に、像内から写経と板札が発見され、仏師奈良方法橋祐円により、建武四年(1337年)3月3日に像立されたことが分かった。

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厨子と御前立像

 本堂正面には、「康正二丙子年」(1456年)という銘がある鰐口があるそうだ。これも市の指定文化財である。

 また和田寺には、「和田寺文書」と呼ばれる室町時代から安土桃山時代にかけて書かれた古文書類が残っている。

 播州清水寺や、地元の小野原荘、在地武士勢力、丹波国守護細川氏のことが書かれており、中世の寺社や武士の支配の在り方を研究する上で貴重な資料らしい。「和田寺文書」は、兵庫県指定重要文化財である。

 中世には、守護大名や寺社勢力、地元国人層が網の目のように重なって土地を支配していた。アナーキーに近い揺れ動く時代だった。

 和田寺には、鎌倉時代から南北朝時代室町時代安土桃山時代にかけての文化財が残っており、中世の空気を現代に伝えている。

 日本が不安定に揺れ動いていた時代のゆらぎが、まだ寺域に残っているような気がした。